本棚に本があふれてる

読書の記録と本にまつわるあれこれ

『テメレア戦記』~辰年なので龍の本~

もう4月になるというのに今更感がありますが、今年2024年は辰年

「辰」という字には「植物が上に伸びていく」という意味があるそうですが、

いろいろな物事も上向いて、龍のように大きく飛躍する年になってほしいですね。

 

さて辰=龍=ドラゴン、といえば

 

 

19世紀初頭、ナポレオン戦争の最中のヨーロッパにドラゴンが存在し、人を乗せて

空を飛び敵軍と戦う、というパラレルワールドを描いた『テメレア戦記』。

待望の第7巻です。

 

史実とファンタジーが融合し、「邪悪で残忍」といったドラゴンのイメージが覆される

意外性、人とドラゴンが一体となって繰り広げる空中戦のカッコよさ。

そして、ひょんなことからドラゴンの「担い手」となってしまった海軍士官ローレンス

が、ドラゴンのテメレアと数々の困難を共にする中で、空軍と海軍との違い、国と国の

政治観の違い、任務と自分の理想との違い、そして人間とドラゴンの考え方の違いとい

った価値観のせめぎあいに悩みつつも、種族を超えた絆を深めていく過程がたまらなく

面白い本作品。

 

第6巻はオーストラリアに足止めされたところで終わってしまい、さあこれからどう

なる?と思っていましたが、第7巻は、オーストラリアでつかの間の平穏な日々を過ご

していたローレンス達のもとに使いが訪れるところから始まります。

いや、困ったときのローレンス&テメレア頼みですか?体よく島流しにしておいて調子

よすぎない?と憤慨しつつ、でもローレンスは祖国のためなら絶対に断らないよね

、そうでなきゃ、とも思ってしまう。

そもそも第1巻からローレンスとテメレアには無茶ぶりの連続で、一難去ってまた一

難、ようやく国に戻れるかと思えばまた次の冒険。まるでオデッセイのようです。

ということで、新たに始まったオデッセイローレンスとテメレアの旅の目的地は南米大陸

アリージャンス号で太平洋を横断しようとしますが、「そう簡単に着くわけがない」と

思う読者の期待を裏切らない、暴動だの嵐だの、お約束の危機の連続。

だけどまさかのあの人が・・・!(さすがにこれはちょっとやりすぎでは?(涙))

けれど悲しむ間もなく、裏切り、挫折、戦闘、策略につぐ策略・・・息つく暇もない展

開にページをめくる手が止まらなくなってしまうのもまたお約束。

祖国のために孤軍奮闘しつつ、人とドラゴンの関係はどうあるべきかと思案するローレ

ンス、そんなローレンスを慕いつつも、いっそ彼が権力を握ってしまえばいいのにと思

うテメレア、めっちゃ強いけどはねっかえりの「イカれ娘」イスキエルカの暴走っぷり

とそれに翻弄されるグランビー。おなじみメンバーも健在でやっぱり楽しい。

ようやくたどり着いた煌びやかな黄金の都インカ帝国では、また一癖も二癖もあ

るドラゴンたちが出てきて・・・?そして宿敵ナポレオンも・・・!どうなるローレン

ス?!

懐かしい仲間のドラゴンやその担い手たちも集結することを予想させつつ、一行は新た

な目的地へ。そして物語は第8巻へ・・・。

全9巻で完結しているそうなのであと2巻!もう楽しみすぎて待ちきれません!!

 

 

 

 

『赤毛のアン』~変わらない世界、けれど変わっていくもの~

いつも素敵な文章と美しい写真でわたしを夢見心地にさせてくださる、ブログ友の

Miyukey(id:Miyukey)さん。

アラフォーの主婦になった私が、古い親友に再会するように

16歳になったアンの日々をいま、読んでいます。

あの時に止まっていた時間が、一気に流れ出したみたい。

 

miyukey.hatenablog.com

 

今回ご紹介させていただいたこの記事には、うっとりと夢心地にさせられたのはもちろ

ん、「腹心の友を見つけた!わたしも『アン』について語りたい!」という気持ちも

むくむくとわいてきて。厚かましくも便乗させていただきました。

 

(いろいろ翻訳されていますが、やはりわたしも村岡花子さんの訳が好きです)

 

男の子が欲しかったマシュウとマリラの家に手違いでやってきた、赤毛でそばかす、や

せっぽちの孤児のアンがカナダの美しい自然の中で成長していく物語。

出版は1908年なのですでに100年以上も昔の本ですが、世界中で翻訳されて今なお数多

くの少女(と、元少女)の心をとらえて離さない魅力にあふれています。

 

わたしもアンと一緒に泣いたり笑ったり、美しいプリンスエドワード島の風景を思い描

いたり、ダイアナとの友情に憧れたり、ギルバートとのロマンスに胸をときめかせた

り…。夢のような時間を幾度すごしたことでしょう。いつ読んでも、何度読んでも、ペ

ージをめくればアンに会える。何年たっても変わらない、ロマンチックな世界をうっと

りと味わう至福のひと時。これはもう、Miyukeyさんに全面同意です。

 

アンが好きすぎるから続きは読まなくてもいい、いつまでも少女の気持ちでいたい、こ

の気持ちもわかります!

そうは言ってもわたしは先が知りたくなって続編も読んでしまったのですが、どれを読

んでも、何度読んでも、『アン』の世界は変わらない。美しい風景描写や心優しき人々

の暮らしぶりは決して色あせないどころかますます輝きを増すように感じられます。

けれど、感動するポイントは、読むたびに変わってきたように思います。

 

初めて読んだときは、とにかくアンのやることなすことが面白くて。

お気に入りの場所に名前をつけたり、木々や花々に話しかけたり、本棚に映る自分の姿

を友達にしたり。なんて面白い子だろう、一体次は何を思いつくんだろう、何を始める

んだろう?そんなワクワク感と、その期待を裏切らない滑稽なエピソードの数々がとて

も楽しく、時折みせる大人顔負けの活躍もカッコよくて憧れでした。

 

もう少しすると、実は理想を追い求める努力家で、失敗しても未来に希望を持っていつ

も前向きなアンの性格に惹かれるようになりました。時々暴走する想像力だって、別の

視点から物事をみることができたり、他の人の気持ちを思いやる力があるということ。

「明日は何一つ失敗しない新しい日」「道の曲がり角をまがった先には、きっといちば

んよいものがある」そんなアンの言葉に感銘を受け、迷ったときには背中を押してもら

ったこともありました。

 

そして大人になると、年齢的にマシュウやマリラの目線で読むようになったからなので

しょうか、

女の子は役にたたないから孤児院に返すというマリラに、

「わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ」

新潮文庫赤毛のアン』P55)

と言ったり、

あの子はわしらにとっては祝福だ。(中略)

神様の思し召しだ。あの子がわしらに入用だってことを神様はごらんになったから

だと思うよ。(新潮文庫赤毛のアン』P473)

とひとりつぶやくマシュウの姿に涙するようになりました。

アンはマシュウとマリラに出会えて人生が大きく変わったけれど、アンに出会うすべて

の人もアンの影響で大きく変わっていく。そして一番変わったのはマシュウとマリラ。

アンを救ったつもりがアンに救われた…そんな風に思うようになりました。

 

変わらない、けれど変わっていく「愛すべきなつかしき世界」。

次に訪ねるときには、どんな風景が見えるのでしょうか。

 

 

 

赤毛のアン』のシリーズは、少女から大人の女性になり、家庭を持ち、子供を育

て、というアンの半生を描いています。

 

ちょうど私が『赤毛のアン』を読み始めたころ、「世界名作劇場」で放映されていまし

た(1979年)。

アンとダイアナがイメージ通り!エピソードも原作にほぼ忠実なのがうれしいです。

 

1985年にはミーガン・フォーローズ主演で映画にもなりました。

エピソードには?と思う箇所もあるのですが、美しい風景と美しい音楽が醸し出す世界

感がとにかく素晴らしいです。 

 

プリンスエドワード島の風景やモンゴメリの生涯を通じて『アン』の世界を紹介してい

ます。

 

『アン』の世界をもっと深堀りしたい方にはおすすめ。

シェイクスピアやブラウニングなどの英文学との関連、人名に見る聖書との結びつき、

花言葉の秘密、作者の生い立ちや時代背景など、今まで知らなかったアンの世界が見え

てきて新たな感動に出会えます。

 

こちらは作者の生涯や時代背景をより深く解説しています。

 

モンゴメリの自伝的エッセイ。

『アン』を彷彿とさせるエピソードもありながら、アンとは違う一面を持ってい

る、複雑で繊細なモンゴメリの内面を伺い知ることができます。

 

 

 

うさぎ年の最後にうさぎのお話『ウォーターシップ・ダウンのウサギたち』

2023年ももうすぐ終わり。今年はうさぎのように軽やかにジャンプする年にしたいと思っていたのですが、現実は「軽やか」とは程遠い状況でした(涙)。一度はブログの継続を諦めて、読書記録のアプリに切り替えていたのです。これはこれでとっても便利。でも今まで出会った沢山の素敵な本たちへの熱い思いをしつこく長々と綴るには、やっぱりブログも捨てがたい…。そんなこんなで迷いながらも、ぼちぼちながらも、もう少しブログも続けてみることにしました。

 

さて、うさぎといえばこの二大キャラクターが真っ先に浮かびますが

 

 

(わたしの中では「ミッフィー」というよりは「うさこちゃん」なので、あえてこちらを)

 

どっちも大好きなので、語りだしたらきりがないですけれど、今年最後に語りたいうさぎのお話はこちら。

『ウォーターシップ・ダウンのウサギたち』 

リチャード・アダムス 神宮輝夫訳 評論社

1973年にカーネギー賞とガーディアン賞をダブル受賞、1978年にはアニメ映画化もされています(日本公開は1980年)。

 

平和に暮らしていたヘイズルは、弟ファイバーの予言に従い仲間とともに村を出て新天地を探すことに。外には危険がいっぱい。そんなときに出会った見慣れないうさぎたち…ヘイズルたちは安住の地を見つけられるのか?

 

作者アダムスが子どもに語って聞かせたお話がもとになっているそうです。イギリスの児童文学にはこういう成り立ちの話が多い(しかも名作が多い!)ですよね。

 

この物語のうさぎはとことんリアルな生態に基づいて描写されているので(当然服なんか着ていない)、擬人化されたふわふわうさちゃんの話しか読んだことのなかった中学生には非常に衝撃的でした。え、本物の野生のうさぎってこんななの?噛む?引き裂く?ええええ!…と。でもそのリアリティに圧倒されてページをめくる手が止まらなくなります。またその一方でうさぎの世界の神話伝承が所々に挿入されてくるのですが、そのファンタジー的側面がまた一層物語世界の「本物らしさ」を増してどんどん引き込まれていきます。それぞれのうさぎも個性豊かに描き分けられていて、あーピグウィグ好きだったわー、とここまでは昔読んだ時も思ったこと。

 

うさぎ年だから、という理由で40数年ぶり(!)に再読してみて感じたのは、「自由とは?生きるとは?」という大きな問いかけでした。

 

ヘイズルたちが旅の途中で出会ったうさぎの村は食べるものにも困らず、安全で文化的な暮らしをしています。また別のうさぎの村は非常によく管理されて栄えています。ではそこに暮らすうさぎたちは本当に幸せなのか?隠された真実から目を背けてかりそめの平和に満足していないか?現実のわたしたちの社会と照らし合わせて考え込んでしまいました。

また、新天地を見つけるのが本当のゴールではなかったということに再読して改めて気づきました(むしろそこには意外にあっさりと到着してる)。けれどそこでめでたしめでたし…にはならず、ではこの群れを今後も継続させていくにはどうしたらいいのか、どういう暮らし方が理想なのか、そのためには大きな犠牲もいとわない、というところまで話が続くところがとことんリアルだと思います。生きるとは命をつなぐこと、自分だけの命ではない、次の世代に平和な社会を残していかなくてはいけない。わたしも含めこんなシンプルなことを忘れてしまっている人間が多いのではないかと考えさせられました。

 

 

余談ですが、今回再読して、この話『冒険者たち』に似ていると思ったのです。小さな動物が旅に出て幾多の困難を乗り越える。特に思いがけない味方を得るあたりの展開がものすごく似ているなあと。なんと出版年まで同時(1972年)でびっくりしました。ちなみに『川の光』(2007年)もちょっと似ています(『川の光』についてもいつかしつこく熱く語りたい!)。

zoee.hatenablog.com

 

 

 

『だれがこまどり ころしたの?』

日本を揺るがした安倍元総理の事件からずっと

このマザー・グースの歌が頭から離れないので、

追悼の思いを込めて記事にさせていただきます。

 

(事件に触れたくない方、不謹慎と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

そのような方はこの先はお読みにならないようお願い致します。)

 

 

 

 

だれがこまどり ころしたの?

わたし とすずめがいいました

わたしのゆみやで

わたしがころした

 

だれがこまどり しぬのをみたの?

わたし とはえがいいました

わたしがこのめで

しぬのをみた

 

 

赤い胸の目立つこまどりがさえずっているところを、

すずめの群れの中の一羽が弓で射た。

不穏な匂いをかぎつけてぶんぶん飛び回り、大きな目で何事も見逃すまいとするハエ。

 

古くから伝承されてきた歌と現実の不思議な一致を感じずにはいられなかったのです。

 

でも、ちいさな動物たちがこまどりのために手分けして葬儀の支度をし、

歌は最後にこう終わります。ここも現実と一緒なのがせめてもの救いです。

 

かわいそうな こまどりのため

なりわたるかねを きいたとき

そらのことりは いちわのこらず

ためいきついて すすりないた

 

(『マザー・グース 4』 谷川俊太郎訳 講談社文庫)

 

安倍元総理のご冥福をお祈りいたします。

 

『琥珀の眼の兎』~小さな根付の長い旅路

 

 

4月16日の日経新聞の「根付が伝える激動の歴史」という記事でこの本を知りました。

アメリカニューヨークのユダヤ博物館で、ウクライナ出身のユダヤの富豪エフルッシ家

が所蔵していた日本の根付コレクション展が開かれていること、そして現在の所有者で

ある一族の末裔エドマンド・ドゥ・ヴァ―ル氏が『琥珀の眼の兎』という本を執筆した

ことが紹介されていました。

偶然にも、その少し前に、NHKの「美の壺」という番組の「手のひらのアート 根付」

の回(を録画しておいたもの)を見て、今まで知らなかった根付の世界に魅了されてい

たのです。

またまた「呼ばれ」た!これは読まなくては!と本を探して読みました。

 

敬愛する大叔父イギーの根付のコレクションを相続した作者は、根付がどうやって一族

の元にやってきたのかをたどる旅に出ます。

日本からパリ、ウィーン、ロンドン、日本、そしてまたロンドンへ。

小さな根付は思いもかけない激動の歴史をくぐり抜けてきていました…。

 

そもそも根付というのは、

ポケットのない着物で小物を帯からぶら下げる際の留め具で江戸時代にはおしゃれ

アイテムとして大流行(NHKホームページ「美の壷 手のひらのアート根付」より)

したものなのだそうです。

そういえば昔祖父母が財布にストラップのようなものを付けていた、あれが根付だった

のかな…と思ったものの、「美の壷」を見るまでは、本来はどのように使うものなのか

すら知らずにいました。そして留め具という実用品でありながら、素材や意匠に工夫

を凝らした、まさに小さな工芸品のような根付が数多く作られていたこと、19世紀後半

ヨーロッパで起きた「ジャポニズム」により、浮世絵などと共に大量に海外に流出して

しまったことも。

 

それらの根付を蒐集したのが、大富豪シャルル・エフルッシでした。本書で語られる

エフルッシ家の莫大な富やきらびやかな交友関係はまさに「華麗なる一族」です。

マネ、モネ、ルノワールなどの画家、プルーストなどの作家、王侯貴族、歴史で習った

著名人や美術品がこれでもかとばかりに出てきて圧倒されます。

けれどその後ナチスの台頭により、ユダヤ系であるエフルッシ家は多くの財産や家族を

失い、264個の根付のコレクションの行方も分からなくなってしまうのでした…。

 

戦後、迫害を生き延びた一族の元に、思いがけない形で根付が戻ってきます。

この経緯がとてもドラマチックで感動したのですが、意外とあっさりとした描写で終わ

っています。根付のたどった歴史は一家の間では代々繰り返し語り継がれてきたのだと

は思いますが、それでもその恩人については何も記録が残っておらず、今となってはフ

ルネームも、その後の人生もわからない…というのはちょっと淋しい気がします。

名もなく忘れられてしまった人にこそ歴史のドラマがあるものなのですね。

 

文中で、作者がお気に入りの根付を無造作にポケットに入れ、散歩をしながら指先で探

り考えに耽る…という描写が何度か出てきます。貴重なコレクションなのに…と一瞬思

ったのですが、根付の本来の用途を考えればそれが正しい扱いのようにも思えるし、作

者にとって根付は骨董品としての価値以上に、大好きだった大叔父のイギーをはじめと

する一族の歴史とその想い出の象徴なのだろうと感じました。

 

YOU ARE WHAT YOU READ

実家の家族も、結婚した相手も、もちろんわたし自身も本が大好き。

なのでいつも沢山の本に囲まれて暮らしてきました。

本棚には収まりきらずピアノの上やソファの上にも侵出し、食事の時には食卓から本を

どけるのがお約束。床の上にも積み上がり、雪崩を起こす。どれもこれも幼いころから

見慣れた光景なので気にしない気にしない。

でもさほど広くもない家なのでさすがにもう置き場所がない。先のことも考えて整理す

るべきかな、それならブログに記録を残せば少しは手放しやすいかも、と思ってブログ

を始めたものの…という顛末は以前にも書きました。

 

さて、そんな我が家の本棚の中身は。

圧倒的に多いのはわたしの好きな児童文学やファンタジーもの。

それから夫の好きな冒険スパイ小説や自己啓発本

推理小説、ミステリー、SF、歴史ものもあるし漫画もあるし、

子どもに買った絵本や図鑑や事典なんかもまだとってあるし、

最近ちょっとはまっているのは野鳥関連の本や漫画。

実家から持ってきた、自分の子どものころ読んだ絵本(50年物(笑))も何冊か。

こうやって改めて見てみると、本棚の中身って自分が今まで生きてきた中で何に興味を

持ってきたか、その歴史ですね。「人は食べたもので出来ている」と言いますが

「人は読んだもので出来ている」とも言えるのではないかしら。

「本は手放しても大丈夫、必要になればまた買い直せるし電子本にもなってるし、図書

館で借りることもできる」と言う方もいらっしゃいます。それは確かにそうだとは思い

ます。実際問題すべての本を手放さずに持ち続けるのは個人では難しいことですよね。

でも、本棚の奥から思いがけず懐かしい本に再会したときの喜びだとか、何回も読んで

破けそうになったりいたずら書きとかしてあるようなページに宿る想い出だとか、そう

いった感情はやはり自分の本棚の、紙の本だからこそ抱けるものではないかと思ってし

まうのです。なので結局、本棚はぎゅうぎゅう詰めのままです。

さて、次はどの本を記事にするか、また本棚を眺めてみることにいたしましょう。

 

今週のお題「本棚の中身)

 

 

『ののはな通信』

 

 

第25回島清恋愛文学賞、第7回河合隼雄物語賞を受賞した、三浦しをんさんの作品です。

 

『ののはな通信』というかわいらしいタイトルと、

同じくかわいらしい小花模様の装丁に惹かれて手に取りましたが、

ガツンとノックアウトされました。

 

ののとはな、生い立ちはまるで違うけれど気の合うふたりの友情はやがて…。

私に魂というものがもしあるのならば、それはあなたのものです。

 

 本書は、昭和59年(1984年)から2011年(平成23年)の間の、

ののとはな、ふたりの往復書簡だけで構成されています。

しかも実際に手紙をやり取りしていた期間は、高校2年生の1年間、大学生の2年間、

42、3歳からの1年ちょっと。

トータル5年足らずの、しかも手紙(とメール)のやり取りだけなのに、

野の花のように可憐な女子高生が、やがて大人の女性になっていく。

ふたりのキャラクターと生き方がくっきりと立ち上がってくることに圧倒されます。

また、やり取りしていた期間の年齢設定が絶妙です。

学生時代は毎日べったり過ごしていた友達とも、卒業後はなんとなく疎遠になり、

就職や結婚といった人生の節目でまたちょっと交流するもそれぞれの生活が忙しくて

連絡が途絶えがちになり、40代になってようやく仕事や子育てが落ち着いて、ふと

昔の友人が懐かしくなる…。誰にでもよくあることですよね。

けれどこのふたりの場合はそんな単純なものではなく。そのギャップがすごいです。

更に このふたり、わたしとズバリ同世代の設定なので、当時の世相なども懐かしく、

まるで自分の人生を振り返るような不思議な感覚にとらわれながら読みました。

女性の生き方や多様性についての考え方、時代背景など、この時代設定だからこそ成立

した物語なのではないかと思いますが、もっと若い人や男性が読んだらまた違う印象を

もつのかもしれません。

 

 

高校時代のふたりのやりとりは、最初のうちは本当に他愛なく、青春真っただ中だなぁ

キラキラしてるなぁと懐かしく読んでいました。

ですが次第に若いふたりの感情のほとばしりにちょっと息苦しさを覚えたというか、

否定するつもりはないけれどそこまで思いつめなくても、とこの時点では感じてしまい

ました。

 

そして2度目の文通が終わるのがちょうど昭和の終わる時。また絶妙な設定です。

当時多くの人が感じたであろう「一つの時代が終わった」という喪失感と、

ののとはなの「自分の中の、とても大きなもの」が終ってしまった喪失感が重ね合わさ

れてとても切なくなります。

 

さらに20年後。

別々の人生を歩んでいたののとはなは再びやりとりを始め、やりとりを重ねるうちに自

分の心に正直になっていきます。

 

もともと、私たちは何ももっていないのよ。この体と、心以外は。だったら、それが

発する声に従って生きるほかないじゃない?簡単で、単純なこと。

 

誰かに批難されるかもしれない、笑われるかもしれない、今までの安寧な生活をなくす

かもしれない。

それでも信じる道を進むふたり。その裏には互いへの深い愛情がありました。

ここまで読んでようやく、ふたりの関係性を理解できたように思います。

ふたりの愛が、もっと広い愛に昇華されていく後半部分は涙をこらえつつ読み、

ののからはなへの最後の手紙にはこらえきれず号泣。究極のラブレターです。