2016年に本屋大賞を受賞、2018年に映画化もされた『羊と鋼の森』。
わたしは単行本で読みましたが、 すでに文庫版が出てました。
本はだいぶ前に読んだのですが、映画の方も先日Amazonプライムで観たので、
併せて感想を書きたいと思います。
「読んでから観るか、観てから読むか」と聞かれたら、
わたしは断然「読んでから」派。
予め話の筋を把握しておきたいのと、
自分の中で物語のイメージを膨らませたり、キャスティングなどを考えてから観て、
自分のイメージと映像表現との違いを楽しむのが好きです。
~♪~♪~♪~ まずは本の感想から~♪~♪~♪~
主人公の外村は、ある日学校で偶然ピアノの調律場面に立ち会い、
その時聴いたピアノの音に惹きつけられます。
冒頭のこの描写が美しく、いきなり作中に引き込まれます。
森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。
風が木々を揺らし、ざわざわと葉のなる音がする。
夜になりかける時間の、森の匂い。
秋といっても九月、九月は上旬。夜といってもまだ入り口の、湿度の低い、
晴れた夕方の午後六時頃。(中略)静かで、あたたかな、深さを含んだ音。
音楽について語る場合、まず問題になるのが「音を文字でどう表現するのか」。
とても難しいことだと思いますが、
作者は静謐な森の中にいるような静かな語り口で、
数々のロマンチックな表現を駆使して音の美しさを伝えてくれます。
冒頭の「森の匂い」もそうですが、他にも、
銀色に澄んだ森に、道が伸びていくような音。そのずっと奥で、
若いエゾシカが跳ねるのが見えた気がした。
「透き通った、水しぶきみたいな音でしたね」
和音の奏でる音楽が、目の前に風景を連れてくる。
朝露に濡れた木々の間から光が差す。
葉っぱの先で水の玉が光って零れる。何度も繰り返す、朝。
生まれたての瑞々しさと、凛々しさ。
心が洗われるような美しい描写にイメージがどんどん膨らみます。
登場人物の一人が、理想の音として、原民喜の目指す文体を挙げているのですが、
「明るく静かに澄んで懐かしい文体、
少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、
夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」
それはそのまま作者の目指す文体なのだろうと思います。
また、一年間北海道に住んだ経験がこの本に生かされているとのこと。
なるほど、だから「夜になりかける時間の森の匂い」「銀色の森にエゾシカが跳ねる」
などという表現が生まれたんだな、と腑に落ちました。
さて、ピアノの音色に衝撃を受けた外村は、
それまで存在さえ知らなかった、ピアノの調律師になることを決意します。
雷にうたれたような、天啓が下ったような、運命的な出会い。
厳しい道なのかもしれないけれど、「これからどこまででも歩いていけると思った」、
そんな風に自分の進む道を選べる人ってとても羨ましい。
きっと作者もそういう運命的な出会いをした人の一人で、そうでなければ
子育てしながら(しかも3人目のお子さんを妊娠中に)文章を書き始めるなんて
できないだろうな…と思います。
ピアノに出会うまで、美しいものに気づかずにいた。
知らなかった、というのとは少し違う。僕はたくさん知っていた。
ただ、知っていることに気づかずにいたのだ。
ピアノという媒体を得て、外村は自分の周りの美しいものに目覚めていきます。
眠っていたさなぎが蝶になるような、蕾が膨らんで花開くような。
美しいものをとらえようと努力を重ねて、次第に覚醒していく姿がまぶしいです。
けれど今まで音楽とは無縁だった外村は今一つ自分に自信が持てなくて、
自分には音楽の才能がないのではないか、向いていないのではないかと悩みます。
そんな外村に先輩の柳さんが言う言葉がとても温かです。
「才能っていうのは、ものすごく好きだっていう気持ちなんじゃないか。
どんなことがあっても、そこから離れられない執念とか、闘志とか、
そういうものと似てる何か」
柳さんの言葉は、外村の周囲の人たちにも当てはまります。
双子の姉妹和音と由仁を襲った試練や、先輩の秋野さんの挫折を知ると、
どんなに好きでも、才能があっても、努力をしても、報われないこともあるという
残酷な現実に打ちのめされる思いがします。
それでも、やっぱり音楽から、ピアノから、離れることができなくて、それぞれの
道を選び取る姿は清々しく力強さに溢れています。
振り返ってみて、わたしの「ものすごく好きなもの」
「どんなことがあっても離れられないもの」って何だろう?
と思わずにはいられませんでした。
好きなもの、趣味としてずっと続けていきたいものはあるけれど、
それを職業として選ぼうとは思いませんでした。
好きなことで生きていくってきっととても楽しいだろうし
ものすごい喜びや充足感を得られるのだろうけれど、
それに劣らず葛藤や挫折や辛いこともあるだろうと思うと、
決心がつかなかった、というか逃げたというか。
でも、何があっても、「努力をしているとも思わずに努力」できなかった時点で、
それは柳さん的にいうと「才能がなかった」ということなのでしょうね。
「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力である」とか
「努力するのも才能のうち」と、昔からいいますものね。
そう考えるとちょっとへこみますが、でもだからこそ、
登場人物たちの真摯な生き方に感動し、エールを送りたいと思いました。
~♪~♪~♪~ ここからは映画の感想~♪~♪~♪~
主役の山崎賢人は、山育ちの純朴な少年というにはキラキラオーラが出まくっていまし
たが、まっすぐ見つめる綺麗な瞳がとても印象的。
控えめな中にもぶれない芯を持ち、
不器用ながらも懸命に努力する主人公を好演していたと思います。
和音と由仁を演じた上白石姉妹は、連弾するときなどの息の合った感じはさすが姉妹!
他にも 鈴木亮平や光石研など、演技上手な俳優陣が脇を固めて安心感がありました。
吉行和子は、セリフがほとんどなくただ居るだけなのに圧倒的な存在感が素晴らしい。
原作の音の表現はとても美しいし、そこから自分なりのイメージを膨らませていく
作業もとても楽しかったけれど、
実際に音を聴いてみて「そうそう、こういう音だよね!」と納得したり、
「この音は?」と自分のイメージとの違いを見つけるのもまた楽しかったです。
音だけでなく映像も併せての表現で更に感動が深まった場面もありました。
中でも、森永悠希演じる引きこもりの少年が「子犬のワルツ」を弾くシーンが
ものすごく良かったと思いました。
本でも感動的な場面だったけれど、個人的に映画ではこのシーンが一番好き。
最初おずおずと、たどたどしい弾き方から、次第に感情があふれ出してきて、
姿勢とか指運びとかタッチとか、ピアノの弾き方がどんどん変わってくるところが
とても上手だったし、
挿入される回想(これは映画オリジナルの解釈)にも泣かされました。
音楽に救われる少年の心情が良くあらわされていたと思います。
外村が森の中で「自分の周りにあふれている音楽」を体感するシーンも印象的。
木々の間に差す光、様々な緑色の重なり合い、木々のざわめき、風の音…。
視覚と聴覚両方で迫ってくる「音」に息をのむ思いがしました。
また、和音の奏でる音を「水」で表現するシーンも映像ならではで、
水面の揺らぎ、ころがる水玉、そして「新しく生まれ変わる和音」を表現した
水中シーンには圧倒されました。
一方、せっかく視覚的に表現できるのに残念だったなと思ったのは、
「ピアノの置き場所」。
和音の家を始め、調律先の家はどれも広々としてインテリアもとても素敵で
目の保養になりましたが、原作通りに、マンションの一室や、小さな家にひっそり
(なかば無理やり)置いてあるピアノで自分なりの音楽を楽しむ人たちと、
コンサート会場のプロのピアニストの華やかな演奏との対比が視覚的にもあれば、
「ホールで沢山の人が聴くピアノと、家で弾くピアノ。
どっちがいいか、どっちがすぐれているか、そういう問題じゃない。
どちらも誰かのかけがえのない物になる可能性がある」
という外村のセリフがもっと生きるのではないかな…と思いました。
~♪~♪~♪~最後に…~♪~♪~♪~
本作品ではピアノの音色を通して表現される「美しいもの」ですが、
森の木々、列車の音、鳥のさえずり、水のきらめき、雪景色、夕焼け空、
雪の積もった夜の「しん」という音が聞こえてきそうな静けさ。
笑顔、泣き顔、相手を信じ、思いやり、寄り添う心…。
文章から、映像から、音から、沢山の美しいものに気づかされました。
自分の身近にある、自分の中にある「美しいもの」を見つけられる感受性を養って
いきたいと思いました。