本棚に本があふれてる

読書の記録と本にまつわるあれこれ

音の森を歩く~『羊と鋼の森』

2016年に本屋大賞を受賞、2018年に映画化もされた『羊と鋼の森』。

 

 

わたしは単行本で読みましたが、 すでに文庫版が出てました。

 

 

本はだいぶ前に読んだのですが、映画の方も先日Amazonプライムで観たので、

併せて感想を書きたいと思います。

 

羊と鋼の森

羊と鋼の森

  • 発売日: 2018/11/05
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 「読んでから観るか、観てから読むか」と聞かれたら、

わたしは断然「読んでから」派。

予め話の筋を把握しておきたいのと、

自分の中で物語のイメージを膨らませたり、キャスティングなどを考えてから観て、

自分のイメージと映像表現との違いを楽しむのが好きです。

 

 

 ~♪~♪~♪~ まずは本の感想から~♪~♪~♪~

 

主人公の外村は、ある日学校で偶然ピアノの調律場面に立ち会い、

その時聴いたピアノの音に惹きつけられます。

冒頭のこの描写が美しく、いきなり作中に引き込まれます。

 

 森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。

風が木々を揺らし、ざわざわと葉のなる音がする。

夜になりかける時間の、森の匂い。

 

秋といっても九月、九月は上旬。夜といってもまだ入り口の、湿度の低い、

晴れた夕方の午後六時頃。(中略)静かで、あたたかな、深さを含んだ音。

 

 

音楽について語る場合、まず問題になるのが「音を文字でどう表現するのか」。

とても難しいことだと思いますが、

作者は静謐な森の中にいるような静かな語り口で、

数々のロマンチックな表現を駆使して音の美しさを伝えてくれます。

 冒頭の「森の匂い」もそうですが、他にも、

 

銀色に澄んだ森に、道が伸びていくような音。そのずっと奥で、

若いエゾシカが跳ねるのが見えた気がした。

「透き通った、水しぶきみたいな音でしたね」

 

 和音の奏でる音楽が、目の前に風景を連れてくる。

朝露に濡れた木々の間から光が差す。

葉っぱの先で水の玉が光って零れる。何度も繰り返す、朝。

生まれたての瑞々しさと、凛々しさ。

 

心が洗われるような美しい描写にイメージがどんどん膨らみます。

 登場人物の一人が、理想の音として、原民喜の目指す文体を挙げているのですが、

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、

少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、

夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」

それはそのまま作者の目指す文体なのだろうと思います。

 また、一年間北海道に住んだ経験がこの本に生かされているとのこと。

なるほど、だから「夜になりかける時間の森の匂い」「銀色の森にエゾシカが跳ねる」

などという表現が生まれたんだな、と腑に落ちました。

 

   

さて、ピアノの音色に衝撃を受けた外村は、

それまで存在さえ知らなかった、ピアノの調律師になることを決意します。

 雷にうたれたような、天啓が下ったような、運命的な出会い。

厳しい道なのかもしれないけれど、「これからどこまででも歩いていけると思った」、

そんな風に自分の進む道を選べる人ってとても羨ましい。

 きっと作者もそういう運命的な出会いをした人の一人で、そうでなければ

子育てしながら(しかも3人目のお子さんを妊娠中に)文章を書き始めるなんて

できないだろうな…と思います。

  

   ピアノに出会うまで、美しいものに気づかずにいた。

知らなかった、というのとは少し違う。僕はたくさん知っていた。

ただ、知っていることに気づかずにいたのだ。

 

ピアノという媒体を得て、外村は自分の周りの美しいものに目覚めていきます。

眠っていたさなぎが蝶になるような、蕾が膨らんで花開くような。

美しいものをとらえようと努力を重ねて、次第に覚醒していく姿がまぶしいです。

けれど今まで音楽とは無縁だった外村は今一つ自分に自信が持てなくて、

自分には音楽の才能がないのではないか、向いていないのではないかと悩みます。

 そんな外村に先輩の柳さんが言う言葉がとても温かです。

 

「才能っていうのは、ものすごく好きだっていう気持ちなんじゃないか。

どんなことがあっても、そこから離れられない執念とか、闘志とか、

そういうものと似てる何か」

 

柳さんの言葉は、外村の周囲の人たちにも当てはまります。

双子の姉妹和音と由仁を襲った試練や、先輩の秋野さんの挫折を知ると、

どんなに好きでも、才能があっても、努力をしても、報われないこともあるという

残酷な現実に打ちのめされる思いがします。

それでも、やっぱり音楽から、ピアノから、離れることができなくて、それぞれの

道を選び取る姿は清々しく力強さに溢れています。

 

振り返ってみて、わたしの「ものすごく好きなもの」

「どんなことがあっても離れられないもの」って何だろう?

と思わずにはいられませんでした。

好きなもの、趣味としてずっと続けていきたいものはあるけれど、

それを職業として選ぼうとは思いませんでした。

好きなことで生きていくってきっととても楽しいだろうし

ものすごい喜びや充足感を得られるのだろうけれど、

それに劣らず葛藤や挫折や辛いこともあるだろうと思うと、

決心がつかなかった、というか逃げたというか。

でも、何があっても、「努力をしているとも思わずに努力」できなかった時点で、

それは柳さん的にいうと「才能がなかった」ということなのでしょうね。

「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力である」とか

「努力するのも才能のうち」と、昔からいいますものね。

そう考えるとちょっとへこみますが、でもだからこそ、

登場人物たちの真摯な生き方に感動し、エールを送りたいと思いました。

 

 

     

 

 

~♪~♪~♪~ ここからは映画の感想~♪~♪~♪~

 

主役の山崎賢人は、山育ちの純朴な少年というにはキラキラオーラが出まくっていまし

たが、まっすぐ見つめる綺麗な瞳がとても印象的。

控えめな中にもぶれない芯を持ち、

不器用ながらも懸命に努力する主人公を好演していたと思います。

 

和音と由仁を演じた上白石姉妹は、連弾するときなどの息の合った感じはさすが姉妹!

他にも 鈴木亮平光石研など、演技上手な俳優陣が脇を固めて安心感がありました。

吉行和子は、セリフがほとんどなくただ居るだけなのに圧倒的な存在感が素晴らしい。

 

 

原作の音の表現はとても美しいし、そこから自分なりのイメージを膨らませていく

作業もとても楽しかったけれど、

実際に音を聴いてみて「そうそう、こういう音だよね!」と納得したり、

「この音は?」と自分のイメージとの違いを見つけるのもまた楽しかったです。

音だけでなく映像も併せての表現で更に感動が深まった場面もありました。

中でも、森永悠希演じる引きこもりの少年が「子犬のワルツ」を弾くシーンが

ものすごく良かったと思いました。

本でも感動的な場面だったけれど、個人的に映画ではこのシーンが一番好き。

最初おずおずと、たどたどしい弾き方から、次第に感情があふれ出してきて、

姿勢とか指運びとかタッチとか、ピアノの弾き方がどんどん変わってくるところが

とても上手だったし、

挿入される回想(これは映画オリジナルの解釈)にも泣かされました。

音楽に救われる少年の心情が良くあらわされていたと思います。

 

 外村が森の中で「自分の周りにあふれている音楽」を体感するシーンも印象的。

木々の間に差す光、様々な緑色の重なり合い、木々のざわめき、風の音…。

視覚と聴覚両方で迫ってくる「音」に息をのむ思いがしました。

 

また、和音の奏でる音を「水」で表現するシーンも映像ならではで、

水面の揺らぎ、ころがる水玉、そして「新しく生まれ変わる和音」を表現した

水中シーンには圧倒されました。

 

一方、せっかく視覚的に表現できるのに残念だったなと思ったのは、

「ピアノの置き場所」。

和音の家を始め、調律先の家はどれも広々としてインテリアもとても素敵で

目の保養になりましたが、原作通りに、マンションの一室や、小さな家にひっそり

(なかば無理やり)置いてあるピアノで自分なりの音楽を楽しむ人たちと、

コンサート会場のプロのピアニストの華やかな演奏との対比が視覚的にもあれば、

「ホールで沢山の人が聴くピアノと、家で弾くピアノ。

どっちがいいか、どっちがすぐれているか、そういう問題じゃない。

どちらも誰かのかけがえのない物になる可能性がある」

という外村のセリフがもっと生きるのではないかな…と思いました。

 

 

~♪~♪~♪~最後に…~♪~♪~♪~

 

本作品ではピアノの音色を通して表現される「美しいもの」ですが、

森の木々、列車の音、鳥のさえずり、水のきらめき、雪景色、夕焼け空、

雪の積もった夜の「しん」という音が聞こえてきそうな静けさ。

笑顔、泣き顔、相手を信じ、思いやり、寄り添う心…。

文章から、映像から、音から、沢山の美しいものに気づかされました。

自分の身近にある、自分の中にある「美しいもの」を見つけられる感受性を養って

いきたいと思いました。

 

雨の日に読む本~『バムとケロのにちようび』

今週のお題「雨の日の過ごし方」といえば、ありがちですが読書や映画鑑賞。

たまってしまったドラマの録画を一気に見たり、

家事は最低限にして、映画(アニメ)を観ながらその原作本を読む、

なんてオタクな行動に耽るのも、時間がたっぷりある雨の日の楽しみです。

 

でも、子どもが小さかったころは、雨の日はいつもより一層忙しく大変でした。

外で遊べない子どもは退屈だとまとわりついてくるし、走り回るし、喧嘩はするし、

部屋は散らかすし、洗濯物が乾かないのに汚れ物は増えるばかり…。

 

 そんなころに子どもと読んだこの絵本。

雨の日のバタバタをユーモラスに描いています。

 

 

バムとケロのにちようび

バムとケロのにちようび

  • 作者:島田 ゆか
  • 発売日: 1994/09/01
  • メディア: 大型本
 

 

雨降りの日曜日、外で遊べないから家で本を読もうと思ったバムは、

その前に散らかった部屋を片付けようと掃除を始めます(えらい)。

やっと掃除が終わって、さあ次はおやつを作ろう、とはりきるバムの前に現れたのは

どろんこぐちゃぐちゃのケロ!!

バムはいつになったら本が読めるのでしょうか… ?

 

親子のような友達のような不思議な関係のバムとケロのシリーズ第一作です。

まじめなバムと自由人のケロの対比が面白く、ユニークな登場人物や

細部まで描きこまれた絵も可愛くて読むたびに発見があり、

隅々まで見たくなる絵本です。

 

 

この、ケロが現れる場面の破壊力といったら。

ついさっき綺麗に掃除した床や壁に滴る泥のしずく。床の水たまり。

全身泥まみれなのになぜか誇らしげなケロの顔。

夫はこの場面を見て「血みどろ」と言いましたが、その後の修羅場を想像したら確かに

そうかもしれません。

もうね、親ならバムの気持ちがよくわかります。その場に倒れこみたくなる感じ。

でも、子どもに一番ウケるのもこの場面なんですよね…。

 

わたしなら子どもがケロみたいなことをしたら、怒り狂ってしまいそうですが

バムは「せっかく すっかり きれいにしたのに」となげきつつも

ケロをお風呂にいれてやり、汚れた部屋も元通りに掃除して

「こんどこそ おいしい おやつをつくろう」と、台所が汚れるのも構わずに、

ケロと一緒におやつを作ります。それもものすごい量の(ここも子ども大喜び)。

ケロのしたことにも動じず、手間暇惜しまず体を動かし、

二人で楽しく過ごす時間を大切にするバムが素敵です。

 

雨の日が続くと、わたしと子ども、どちらからともなく

「バムケロちゃんの本読もうか!」と本棚から取り出していた日々が懐かしいです。

 

 

 

 

バムとケロのなかまたち(既7巻セット)

バムとケロのなかまたち(既7巻セット)

  • 作者:島田ゆか
  • 発売日: 2011/04/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時空を超えて惹かれ合う魂~『トムは真夜中の庭で』

外に出るのが気持ちのよい季節になりましたが、

圧倒的に家にいる時間が長い今日この頃です。

わたしは基本的にインドア派なのであまり苦になりませんが、

子ども達はやっぱり外に出て、思いっきり友達と遊びたいだろうと思います。

 

ということで今回の本は、

病気のせいで出かけられなくて友達と遊べなくてつまらない。

現代のコロナ禍と同じような状況に置かれてしまった男の子の不思議なお話。

1958年にカーネギー賞を受賞した、イギリス児童文学の古典です。

  

 

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))

 

 

 

 

 主人公のトムは、弟のピーターがはしかにかかってしまったので、

隔離のため、古いお屋敷を改造したアパートに住む叔母さんの家に預けられます。

ところがある晩、広間の大時計が13時を打って…。

 

 

イギリスの児童文学でよく舞台となる「古いお屋敷」。

これだけで、きっと面白い話だと思ってわくわくしませんか?

今思いついただけでも、『秘密の花園』『時の旅人』『ナルニア国物語

『グリーン・ノウの子どもたち』『床下の小人たち』など、名作揃い。

何年も年を経たお屋敷にはやはり何か秘密があるのでしょうね。

 

 

子どものいない叔母さん夫婦の家で、トムは退屈で仕方がありません。

遊び相手はいないし、叔母さん夫婦は良い人だけれど、子どもの気持ちには疎い様子。

せっかくの夏休みなのに、「ちょっと我慢」とか「ほんの数週間」と言われても、

育ち盛りのやんちゃな男の子にとっては永遠にも等しい時間です。

テレビゲームもインターネットもない時代、どう時間をつぶしたらいいのやら。

そんなときに大時計が13時を打つ音が聞こえたら?

これは確かめないわけにはいかないでしょう。

 

忍び足で階段を降り、裏口のドアを思い切って開けると。

そこには昼間の侘しい裏庭とは全く違う広い美しい庭園があり、

屋敷には昼間とは違う人々が暮らしていました。

トムは屋敷の住民の一人、ハティと知り合って…。

 

  ドアを開けたら別世界、というところまで読み進めると、

あ、これはいわゆるタイムトラベル物?それともトムが夢を見ているのかな?

と読者は思うのですが、当事者のトムだってもちろんあれこれ考えます。

このあたりの思考の流れや行動がいかにも男の子らしくほほえましいです。

これは夢なのかもしれないけど、こんな綺麗な場所、探検してみなきゃ帰れない、

あとでピーターに全部話してやろう、とか

みんな幽霊なのかもしれないけど、

危なくはなさそうだし楽しいからまあいいか、とか。

夜ベッドを抜け出す時に、締め出されないようにドアにスリッパを挟んでいく、とか。

(スリッパがそのままなら誰にも見つかっていないという証拠になるというわけ)。

ハティの服になんとなく違和感を感じる理由がわからず、百科事典で調べてみる、

とか(女の子なら、古めかしいファッションだと真っ先に気づきそうなものです)。

 

 ハティが昔の時代の人だとわかっても、トムはその後も夜な夜なベッドを抜け出し、

庭を訪ねてハティとの友情を育んでいきます。

一人でさみしいのはトムだけでなく、

ハティもまた、両親を亡くして預けられた親戚の家でのけ者にされ、

孤独な日々を過ごしていたのでした。

 

筆者の育った家がモデルだという庭園はとても細かく描写されていて、

美しさが目に浮かぶようです。こんな庭ならトムでなくても行きたくなります。

木の中におままごとの家を作るとか、

真冬の凍りついた川をスケートで滑っていく、といった遊びは

きっと作者の体験なのでしょうけれど、すごく素敵で憧れます。

 

  それでもまだなぜトムがハティに会いにいけるのかは謎のまま。

また、行くのはいつも真夜中なのに、行くたびに庭では時間も季節も、時代も

違っていて、ある時は幼いハティなのに、またある時は大人の女性だったり。

 それに、どんなに長い時間庭で遊んでいたと思っても、アパートに戻ってみると

まだ夜のままなのです。

 

この話はトムの夢なのか、それとも大時計に何か魔法とか仕掛けがあるのか、

だんだん怖くなったきたところで(だってトムの姿はハティ(と園丁のアベル)にしか

見えないままだし、ハティはどんどん成長していってしまうし)、

ついにハティにもトムの姿が見えなくなってしまう日が。

 

「去る者は日日に疎し」英語だと”Out of sight, out of mind”

と言いますが、まさにこの逆 ”Out of mind、out of sight” で、

大人になったハティは恋人とのデートの方が楽しくなってしまい、トムへの

気持ちが離れてしまったので、文字通り姿が見えなくなってしまうのです。

この場面、ほんとに怖かったです。トムはどうなっちゃうの!?と。

ただ、逆にここまで読んで初めて、

園丁のアベルにトムの姿が見えるわけがわかったように思いました。

あのお屋敷の人たちのなかで、アベルは唯一ハティのことを気にかけていた人物だった

ということなのではないかしら。

 

ハティには恋人ができ、もう見捨てられた小さな女の子ではなくなりました。

トムの夏休みも終わりに近づき、もうすぐ家族の元に帰れそうです。

それでもトムはまだ、あの庭園と、ハティと過ごす時間を諦めきれません。

庭園に魅入られるあまり、ほんとうの自分の居るべき場所がどこなのか

わからなくなってしまったのでは、という危うさを感じずにいられなくなってきます。

「もう潮時でしょ、いい加減にハティに会うのはやめようよ」と

トムに言いたくなります。

 

危うい予感は的中。 トムはとうとう、 

「庭園にあるものをみんな見て、なにもかもやってみたあとでなければ、かえらない

んだ」(『トムは真夜中の庭で』 岩波少年文庫 271ページ) 

と決心して、裏口のドアを開けるのですが…。

 

きゃー、何が起こったの!?と

読者もトムと一緒にパニックに陥りますが、

最後に「ああ、そうだったのか!」とすべてが明かされます。

 

 

  最初に裏口のドアを開けたときから最後までずっと、

わたしも一緒にドキドキしながら、トムの後ろについてドアの向こう側の世界を

旅してきたように感じられました。

先の展開の読めないミステリアスな怖さ、最後の種明かしと伏線回収の巧みさに

引き込まれたお話でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

腹黒じゃなくていい子だったよ~       『そらまめくんのベッド』

スーパーに買い物に行ったら、そら豆が売られていました。

グリーンピースにそら豆、枝豆、豆が出回るこの季節になるといつも思い出す本です。

 

そらまめくんのベッド (こどものとも傑作集)

そらまめくんのベッド (こどものとも傑作集)

 

 

そらまめくんの宝物はふわふわベッド。

誰にも貸さない大事な大事なベッドがある日とつぜんなくなって…?

 

 

 

そら豆といえば、私が子供のころ、親に聞かせてもらったそら豆のお話が

ちょっとブラックで…。

なぜそら豆に黒い筋があるのか、という話なのですが…。

  

 日本の昔話だと思っていましたが、グリム童話にも同じ話があります。

国が違うのに同じ話が語り継がれるって不思議ですね。

 

まめとすみとわら (心の絵本)

まめとすみとわら (心の絵本)

  • メディア: 単行本
 

 

 

完訳 グリム童話集 1 (岩波文庫)

完訳 グリム童話集 1 (岩波文庫)

 

 

 友達の不幸をゲラゲラ笑うそら豆って…と、子ども心にドン引きした記憶があります。

のちに「腹黒」という言葉を知った時も、「そら豆!?」と思ったり。

 

 

 

 話がだいぶそれました。

大人になって本屋さんで『そらまめくんのベッド』を見つけ、

ふわふわベッドですやすやねているそらまめくんの姿を見て

長年の偏見?が一瞬で消え去りました。

そら豆なのに可愛い! 

「腹黒」じゃない!(黒い部分は髪の毛みたいに描かれています)

「ベッド」って、さやのことか、なるほどね…たしかにふわふわだ…

(昔はベトベトしてる、と思っていたんです。物語の力ってすごいです)

 

早速 子どもに読み聞かせすると大喜びで、しばらくの間は店先で豆を見るたびに

えだまめくんのベッドはちいさいの。

ピーナツくんのベッドはかたいんだよね。

と言っていました。

そら豆のさやも実際にむいてみて、その「ふわふわ」具合に大興奮していました。

この「ベッド」、庭に置いておいたらだれか使ってくれるかなあ…

なんてやってみたこともありましたっけ(残念な結果に終わりましたが…)。

 

幼稚園くらいのこどもって、大事なおもちゃを人に貸せなかったり

人それぞれ個性があるということに気づけなかったりしますが、

ベッドをなくしたそらまめくんに最初はいい気味、と思っていた他の豆たちが

ベッドを貸してあげようとするところ

(そしてそのベッドが豆によって小さかったり固かったりするところ)は

そういったことをとてもわかりやすく伝えていると思います。

さらに、他のひとを思いやる気持ちや、皆で楽しみを分かち合う気持ちも

ストーリーの中で自然と共感できるようになっていると思います。

 

こどもに読んであげていたのはこの3冊でしたが

 

そらまめくんとめだかのこ (こどものとも傑作集)

そらまめくんとめだかのこ (こどものとも傑作集)

 

       

そらまめくんとながいながいまめ (創作絵本シリーズ)

そらまめくんとながいながいまめ (創作絵本シリーズ)

  • 作者:なかや みわ
  • 発売日: 2009/04/01
  • メディア: ハードカバー
 

 

 

 

出版社も変わって、続きのお話がいろいろ出ているのを知りました。

読んでみたいです。

  

そらまめくんのおはなし(3冊セット)

そらまめくんのおはなし(3冊セット)

 

 

 

 

 

 

 

ねずみ年は終わったけれどねずみのお話① 『冒険者たち』

本当は干支つながりで去年のうちに書きかけていました。

もう4月にもなってなんだか間が抜けてしまいましたが、

今週のお題】 「下書き放出!」に便乗しまして。

 

 ねずみが主人公の話って沢山あります。

すぐに思い付くだけでも、

『いなかのねずみと町のねずみ』

ぐりとぐら

『14ひきのひっこし』

『ねずみくんのチョッキ』

などなど…。

 

食べ物を食い荒らしたり、病原菌を媒介したりといった害獣のイメージもある一方で

可愛い、賢い、器用などといったイメージもありますね。

昔から人間の身近にいた、親しみのある生き物だからかもしれません。

 

そんな数あるねずみのお話の中でも好きなのは

 

 

冒険者たち ガンバと15ひきの仲間 (岩波少年文庫044)

冒険者たち ガンバと15ひきの仲間 (岩波少年文庫044)

  • 作者:斎藤 惇夫
  • 発売日: 2000/06/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  

ドブネズミのガンバは、友達のマンプクに誘われて港に遊びにいったのをきっかけに、

15匹の仲間と一緒に島のねずみを助けに行くことに。

生まれて初めて見る海、ねずみの天敵イタチとの闘い、そして淡い恋。

命がけでイタチと戦うガンバ達の運命は…?

 

 

小さなねずみたちの話ではありますが、

平凡な男が数々の苦難を乗り越えて英雄となり、仲間と共に新たな旅に出るーという

おとぎ話にありそうな筋立てに、

勇気!友情!冒険!自由!夢とロマン!戦い!裏切り!団結!

などなどてんこ盛りの、非常に男くさいお話です。

生き生きとした躍動感や、楽天的な、前向きなパワーを感じます。

 

ねずみならではの器用さや身体能力もうまくいかされていて、

ロープを伝って船に乗り込んだり、齧ったり、穴を掘ったり、

泳いだり(ねずみって泳げるんですね)と大活躍。

頭脳派のガクシャ、肉体派のヨイショ、俊足イダテン、クールなイカサマなど、

15匹の仲間たちの性格や能力もそれぞれ個性的です。

 

 

 そして敵役のイタチのリーダー、ノロイがとても恐ろしいのです。

白い毛並みに優美なしぐさ、しかし狡猾なノロイは、

巧みなマインドコントロールで、ねずみたちを追い詰めていきます。

それぞれの個性を生かした戦いぶりで大健闘するも、

身体の小さなねずみたちはだんだん劣勢になってしまいます。

もうだめかと思ったその時に…?

 

ねずみとイタチの戦いというストーリーと並行して、主人公ガンバの成長も

魅力的です。

最初のうちは、その場のノリで「島のねずみを助けてやろう」と言い出したあげく、

 引っ込みがつかなくなって「俺一人でも行く」と強がって見せたり、

経験豊富な仲間のねずみたちについていけば何とかなるだろう、と思ったり、

ただの気のいいあんちゃんという感じは否めません。

 

けれどもガンバと行動を共にしていくうちに、仲間のねずみたちは(そして読者の

私たちも)行き当たりばったりなガンバの行動に少々あきれながらも、

持ち前の正義感と行動力、そして困っている者を見たらだれであろうと手を差し伸べる

優しさをもつガンバをリーダーとして認めるようになっていきます。

自分は決してそんな立派なねずみじゃない、と弱音を吐きながらも、

仲間たちを、愛する者を、そして自分たちの尊厳を守るために

勝ち目のない戦いに身を投じていくガンバはとてもカッコいいと思います。

 

戦いを終えたガンバは、仲間たちと一緒に旅に出ることになります。

さあゆこう仲間たちよ

住みなれたこの地をあとに

曙光さす地平線のかなたへ…

 

物語中に何度も歌われた歌と共に。

ガンバと仲間たちの冒険は、まだまだ続くことでしょう。

 

 

 

 一気に読み終えてしまう面白い物語の魅力を更に増しているのが

薮内正幸さんの挿絵です。

薮内さんといえば、『どうぶつのおやこ』『どうぶつのおかあさん』

などで知られる絵本作家です。

とても緻密で本物そっくり、だけど写真にはない温かみを感じさせる絵ですね。

冒険者たち』の挿絵をみても、写真のように精密なのに一匹一匹の特徴や表情まで

描きわけているのには驚きます。

作者の描くストーリーの面白さはもちろんですが、

薮内さんの挿絵のもたらす躍動感、臨場感が、この物語をファンタジーでありながら

リアルなものにしているのだと思います。

(だって襲い掛かってくるノロイの絵とか本当に怖いですよ)

 

冒険者たち』には前編にあたる『グリックの冒険』があって、

ここではガンバはちょい役です。 

 

グリックの冒険 (岩波少年文庫)

グリックの冒険 (岩波少年文庫)

  • 作者:斎藤 惇夫
  • 発売日: 2000/07/18
  • メディア: 単行本
 

 

 

 ところがガンバのお話をもっと書いてほしい、

という読者たちの声で続きを書いたのが『冒険者たち』とのことです。

 

後編にあたる『ガンバとカワウソの冒険

が続いて3部作となっています。こちらでもガンバは大活躍します。

ガンバとカワウソの冒険 (岩波少年文庫)

ガンバとカワウソの冒険 (岩波少年文庫)

  • 作者:斎藤 惇夫
  • 発売日: 2000/09/18
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

 ちなみに、

1975年にテレビアニメ化されていたようですがわたしは残念ながら見ておらず。

2015年には映画化もされています。

絵はとてもきれいですがちょっとねずみたちを擬人化しすぎな気がするし、

ノロイもツルツルしていてイタチっぽくないかな…と個人的には思います。

 

 

  

GAMBA ガンバと仲間たち

GAMBA ガンバと仲間たち

  • メディア: Prime Video
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

土から離れては生きられないのよ~『英国貴族、領地を野生に戻す』

 

 

『英国貴族』というタイトルに惹かれて軽い気持ちで手に取ったのですが

とても読みごたえがありました。

  地球規模での環境破壊が問題となっている今、読んで良かったと思います。

 

準男爵の一家がイギリス南東部のサセックス州に代々受け継いだ領地が舞台ですが、

さすが英国貴族、クネップという名のこの領地がすごいです。

もともとは12世紀(平安時代!)に領主が築いたお城で、

ジョン王も鹿狩りに訪れたという由緒ある場所。

総面積1,416ヘクタール。なんと東京都目黒区に匹敵する広さです。

一家はここで農園を経営していましたが、もともと農業に不向きな土地だった上、

農業の近代化とグローバル化の影響で経営難に陥ります。

そこで家畜や農機具などを全て手放し、耕作を下請けに出し、政府の資金援助を受けて

「領地の一部を自然の状態にもどすプロジェクト」に着手したのでした。

 

このプロジェクトは「カントリーサイド・スチュワードシップ」と言って

野生生物の保全、景観の維持向上、歴史的環境と自然資源の保護を目指すものです。

イギリスは産業革命以降の近代化、および第二次大戦中に食料自給率を高めるため

積極的に農地を増やしたことなどで自然の生態系が失われ、動植物の絶滅も深刻化して

いるとのこと。日本と同じですね。先進国の抱える問題なのでしょう。

 

再野生化で自然が復活していく様子は感動的です。

耕作を止めた土地には様々な草木が生え、虫が増え、小動物が増え、

放牧されたシカや牛や野ブタが自由に草を食み地面を掘り起こし排泄物を落とす。

それがさらに生態系の回復を促して、

ナイチンゲールやコキジバトのような希少な動植物もやってきます。

イリスコムラサキという珍しい蝶も数万羽も飛び交うようになり、

枯れかけていたオーク(ナラ)の木がよみがえっていきます。

自然の力って本当にすごい!と圧倒されます。

 

「野生=自然のまま=ほったらかし」でしょ、再野生化なんて簡単じゃないの?

と思いがちですが、決してそうではないということを初めて知りました。

 たとえばシカや牛などの大きな動物を放すときは、生態系のバランスを崩さないように

とても慎重に検証を重ねます。

この土地に昔からいた動物は?

もし絶滅してしまっていたら一番近い種類はどれか?

この広さに生息できる数は?繁殖して数が増えたら?

死んだ場合の死骸の処理は?などなど…。

「ほったらかし」とは対極の非常に論理的・科学的な姿勢には感心させられました。

 

 

筆者は何度も「自然とは何か?」と問いかけます。

今わたし達の身近にある「自然」は、人間が手を加えてしまった状態であって、

今生きている人は誰も、本当の野生の状態を知らない、というのです。

だからこそわかる限りで昔のことを調べ、慎重に取り組む必要があるのですね。

けれども「正解が誰にもわからない」ので、

今ある状態が「あるべき自然」と感じている人々からは、「農地がもったいない」

「雑草が景観を損ねる」「害虫・害獣が増える」といった批判を受けます。

 

こうした批判の数々に筆者は一つ一つ耳を傾け、科学的な根拠を示していくのですが、

驚きの事実が次々明かされて目からウロコがぼろぼろと。

 中でも、自然保護より農業生産を優先すべきという批判に対して示す

 「実は地球上では、既に世界の総人口を養うのに十分な食料が生産されている」

という事実には衝撃を受けました。

(ではなぜ食料危機が問題になるかというと、先進国の人が過剰に買い占めたり、

食べずに廃棄してしまったり、インフラが未発達な国々では保存や輸送の段階で

腐ってしまうなどの理由で、本当に必要とする人々の口に入らないからなのです。)

 

また、「土」の持つ力にも驚かされました。

豊かな土は多くの動植物を育むことができる、この程度ならわかりますが、

カーボン・ファーマーズ・オブ・アメリカという会社が主張するように

「世界中の耕作地の土壌中に含まれる有機物がわずか1.6パーセント増加すれば、

気候変動の問題は解決する」となると、

有機物を1.6パーセント増やすのにどのくらいの労力と時間がかかるのかはともかく、

驚きを通り越して奇跡のように思えませんか。 

 

 土は、私たちの目の前で生まれるあらゆるものの、目に見えない基盤であ

り、資源を生まれ変わらせ、すべてをつなぐものであるー土は生命の鍵

そのものなのだ。

 

筆者のこの言葉、

映画『天空の城ラピュタ』のシータの名台詞

「土から離れては生きられないのよ」を思い出したのはわたしだけでしょうか。

 

 

映画と同じように、クネップにも明るい未来が待っているように思えたのでした。

 

 

けれど…。現実は甘くはなくて。

20年にわたるクネップのプロジェクトは多くの研究者から高い評価を受け、

観光客も大勢訪れるようになります。プロジェクトは成功したと言えるでしょう。

それでもクネップだけでは、まだ「小さすぎて」

絶滅の危機に瀕している動植物を救うことはできないというのです。

それでも希望を捨てず、一人一人が少しづつでも行動すれば未来は必ず変えられる

という信念を持って、新たな目標に向け歩み続ける筆者の姿に静かな感動を覚えます。

最後のページは涙で文字がぼやけてしまいました。

 

自分には何ができるのか。

食べ物やエネルギーを無駄にしない、ゴミを出さない、環境に配慮した商品を選ぶ、

自然保護団体に寄付をする…?

すぐ思い付くのはほんの些細なことでなんだか歯がゆいのですが、

少しづつでも続けて行きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『だれもが知ってる小さな国』

だれも知らない小さな国』の作者佐藤さとるさんが2017年に亡くなられたとき、

とても悲しくて。

ああ、もうコロボックルのお話は終わってしまったんだ、

後は自分の心の中で大事に温めていくだけだ、と思っていました。

ところがうれしい驚きで、有川浩さんが続編を書かれていたことを知りました。

しかも村上勉さんの挿絵で。

 

 

だれもが知ってる小さな国

だれもが知ってる小さな国

 

 

 

有川浩さんと言えば、『図書館戦争』『空飛ぶ広報室』『三匹のおっさん』など、

多くの作品で賞を受賞したり映像化も次々にされるという人気作家。

読んでも観ても面白くて、好きな作家の一人です。

その有川さんが書くコロボックルの物語。

わー嬉しい、すぐにでも読みたい!と思う半面、

わたしの大好きな、あの世界観と違ってしまっていたらどうしよう?

このまま読まないで、「わたしの」コロボックルの世界に浸っている方がいいのでは?

など屈折したオタク心を胸に、恐る恐る手に取りましたが…

 

はい、大正解でした。

コロボックル物語』のファンなら、「だれもが知ってる」小さな国は健在でした。

 

まずしょっぱなからだれも知らない小さな国』のオマージュです。

 

二十年近い前のことだから、もう昔といっていいかもしれない。

ぼくはまだ小学校の三年生だった。 

 

そっくり同じ文章で物語が始まったことに感動しました。

 

この後も主人公が語るスタイルで話は進みますが、

その語り口も『だれも知らない小さな国』とそっくり!

一気に気持ちを持っていかれます。

さらに主人公の名前が「ヒコ」と「ヒメ」。

これでもう、二人がコロボックルと何らかのかかわりを持っているとわかります。

そしてこの二人は「はち屋(養蜂家)」の子。これまたコロボックル物語に出てくる

「くまんばち攻撃」や「ミツバチぼうや」を思い出させます。

他にも男っぽい話し方の先生や、黒髪にぱっちりお目目、しっかり者のヒメちゃん。

「こんな人いたいた!」と、どんどんコロボックルワールドに引き込まれていきます。

 

こんな風に『コロボックル物語』の雰囲気は濃厚に受け継ぎつつも、

物語の舞台は現代なので、まったくの続編というわけではなく、

おなじみの登場人物は出てきません。

主人公のヒコもゲーム大好きな現代っ子

そんなヒコの前にハリーという一人のコロボックルが現れますが、

こちらも名前からしてイマドキの若者風だし、

ヒコの反応(すげーレアキャラゲットしちゃった!的な)も、

いかにも現代っ子ぽくてクスッと笑えます。

 ハリーと 友達になるために、だれにもしゃべらない、と約束するヒコ。

でも、自分が見たものは一体何なのか気になって仕方がない。

秘密は守らなきゃいけないけれど、本当のことを知りたい。

「小人って、本当にいるのかな」うっかり漏らした一言に、

本好きのヒメちゃんが教えてくれたのが『だれも知らない小さな国』でした…。

 

主人公が『コロボックル物語』を読んでコロボックルについて知るという展開も、

小さな国のつづきの話』と同じ。

  『コロボックル物語』シリーズが作中でとても効果的に使われています。

 

 

ヒコとハリーが少しづつ友情を深めていく中で、

 今作でも、コロボックルの静かな生活が脅かされそうになります。

ヒコはどうやってコロボックルを守るのか? というストーリーと並行して、

ヒコとコロボックル、

ヒコとヒメ、

ヒコとミノルさん、

ミノルさんとトシオさん、

コロボックルとミノルさん…

登場人物それぞれの関係を通して、『コロボックル物語』の根底にある

「異質な物への理解と協調」というテーマも丁寧に描かれていきます。

 

さて、ハリーはなぜヒコの前に現れたのか?

最後の怒涛の種明かしはさすが有川さんです。

「やっぱりね」も「そうだったのか!」も(タイトルの意味も含めて)ありますが、

きっちり伏線が回収されて気持ちのいい爽やかな読後感です。

 

そしてもう一つの、誰もが抱く疑問、

「そもそもコロボックルは本当にいるのか?」という問いに対しても、

有川さんは登場人物の一人に語らせる形で素敵な答えを用意していました。

「信じている人には見える。サンタクロースと一緒だね」

 

 有川さん、「私たちに、もういちどコロボックルを、ありがとう!!!」

 

 

 

 

(表記の誤りを2021年10月28日に訂正しました)