本棚に本があふれてる

読書の記録と本にまつわるあれこれ

佐藤さとるの世界

神奈川近代文学館で9月26日まで開催されていた

佐藤さとる展ー『コロボックル物語』とともにー」。

行ってきました!

・・・と言えればどんなに良かったか。

物凄く行きたかったのですが、色々ありまして残念ながら行けませんでした(涙)。

未練がましく企画展のHPを見ていたら、今まで読んだことのなかった本が何冊か紹介さ

れていたので、せめて本だけでも読みましょうとそれらを読みふけり、ついでに『コロ

ボックル物語』を(何回目になるかわかりませんが)読み直していました。

 

やっと感想をまとめることができましたので何回かにわけて書いていこうと思います。

まずは佐藤さとるの自伝的物語。

 

 

 

 

『オウリィと呼ばれたころ』は、生い立ちから始まり、戦争中の疎開経験などを経て

専門学校で建築を学びながら童話を書き始めるまでの話。

 

『コロボックルに出会うまで』は、学校を卒業後、働きながら同人誌で童話を書きつづ

け、生涯の伴侶と出会うまでの話。

 

 

コロボックル物語』の作者=佐藤さとる=「せいたかさん」だと思ってきた読者はわ

たしを含め多いと思います。けれど『小さな国のつづきの話』の中で、作者は自分のこ

とを「せいたかさんではない」「せいたかさん経由で伝えられたコロボックルの物語の

語り手である」と言いました。作った話ではない当時のわたしはそう理解しました。

大人になってからは、本のあとがきや解説を読んで知ったつもりになっていましたが、

この2冊を読んだことで物語の「作り手」としての佐藤さとるを再発見できました。

もっと早くこの本を読めば良かった。出会えて嬉しい半面ちょっと残念な微妙な気持ち

になりました。

 

佐藤さとるは1928年(昭和3年)横須賀生まれ。

お父さんが海軍、お母さんが教員という家庭環境で躾や教育にも熱心だったのでしょ

う。小さいころから外国の童話などに親しんで育ちました。

またその一方で、「按針塚」と呼ばれていた塚山公園周辺の豊かな自然の中を思う存分

駆け回って遊びました。この「按針塚」で過ごした少年時代が作家佐藤さとるの原点で

あり、数々の物語の舞台ともなっています。

しかしその後の青春時代は戦中、戦後の混乱期を乗り越えなくてはなりませんでした。

学徒動員、父の戦死、自分の病気、疎開、家族を養うため学校に通いながらのアルバイ

ト生活……。

淡々と語られていますが今の私たちには想像できないような厳しい生活、そんな中でも

卑屈にならず、正直にまっとうに前を向いて生きていく姿に頭が下がります。

「オウリィ」というのは疎開先の旭川進駐軍の食堂のアルバイトをしていた時に

アメリカ兵からつけられたあだ名で、「ふくろう坊や」くらいの意味。作者は

「ふくろうには『賢者のふりをする』『生半可』『知ったかぶり』という意味もある」

と謙遜していますが、アメリカ兵の目に映っていたのは「眼鏡をかけた、考え深そうな

物静かで真面目な青年」の姿だったことでしょう。

 

本を読んでまず驚いたのは佐藤さとるの運の強さです。

何度もピンチはありますが、ここぞというときの「運命の曲がり角」になると、いつの

間にか結核が治っていたり、友人や周囲の人から仕事を紹介してもらえたり、学校の追

加募集締め切り二日前に申し込めたり(そして合格できたり)するのです。最初の就職

は希望に沿う形ではありませんでしたが、そこから転職した先で生涯の伴侶に出会った

り、さらにまた編集者への転職が叶ったりと、着実にステップアップしていきます。

もちろんご本人のお人柄だったり、地道な努力があってこその「運の良さ」なのですが

それにしてもコロボックルのような守り神がいるのでは?とつい思ってしまいます。

また、佐藤さとるはとても多才な、沢山の顔を持つ人でもあります。

技術者であり教師であり編集者であり作家。

働きながらも「いつか長編童話を書きたい」という夢を持ち、作家の平塚武二に師事し

ながら同人誌に入って童話を書き続けます。穏やかな夢想家なのかと思っていると、

「建築局に移してもらえないなら他へ行きます」とか、

「いついつまでに短編をひとつかけ、と言われても困る」などの強気の発言がでてきて

びっくりすることもあります。小さい時は相当なやんちゃ坊主だったということです

が、でもこういう芯の強さがあるからこそ、日々の生活に流されてしまうことなく

「読んでも読んでもなかなか終わらないような長い長い童話をいつか書いてやる」

という夢を持ち続けていられたのでしょう。

 

そしてつらい経験も、楽しい思い出も、出会った人たちも、書き綴った初期の習作も、

全て落とし込んであの数々の名作が生まれたのだということがよくわかります。

物語の舞台となる「按針塚」。「作中のあの人のモデルかな?」と思うような人々や職

業。技術者としての科学的な知識、新聞の編集やガリ版刷り、測量のアルバイトで行っ

た道路開発工事のゴタゴタなどの仕事上の経験も「あ、これはあの話の・・・」と思え

るものばかりです。

また、初期の作品のひとつである「大男と小人」という童話は、おじさんと少年のよく

ある日常会話を切り取っているだけのようなのに、視点をちょっと変えるだけで大男や

小人が出現することに新鮮な驚きを感じますが、「日常のできごとの視点を変えてみ

る」「ほかの人の立場に立ってみる」、こんなところにも佐藤さとるの人柄が現れてい

るように思いますし、後の作品にもずっと反映されている考え方だと思います。

 

コロボックルを主人公に据えた物語を書くようになった経緯は、『コロボックルの世界

へ』という本にも詳しく書かれています(別記事をご参照下さい)ので、最後に個人的

に印象に残ったエピソードを二つご紹介します。

 

ひとつは『オウリィと呼ばれたころ』に出てくる、鉱石ラジオを仕込んだ箱根細工の小

箱(手のひらにのる大きさ)の話。もともと小さいものが好きだったということです

が、「小さくて可愛いもの」というより「小さい中に機能がぎゅっと詰まっている精密

さ」が好きだったのではないでしょうか。男の子によくある、虫の精巧な体つきや動き

に興味を持つとか、お父さんの時計がチクタク動くのに興味を持つとか。その延長線上

にあるのがこの小箱だと思います。ラジオと優美な細工物といった一見相反するものを

融合させる着想の豊かさと、それを実現して新たな機能美を生み出す根気強さと器用

さ。佐藤さとるという人をよく表している象徴的なエピソードだと感じました。

 

もうひとつはなんといっても、『コロボックルに出会うまで』で描かれる奥様との出会

いです。

出会ったその瞬間に「この人が自分の伴侶になる人だ」と、しかもお互いが思うとは、

運命に導かれたとしか思えません。

奥様は小柄だけれども彫の深い顔立ちの理知的な美人。『コロボックル物語』に出てく

るあの人やこの人のモデルはきっと奥様に違いないです。

「わたくしとしては、旦那様はただのヒラ先生でもいいし、売れない童話作家でもいいし、もちろん編集者でもかまわない」(『コロボックルに出会うまで』)

結婚直前に転職しようとする婚約者にこんな風に言えるなんて素敵な方ですよね。

相手への深い信頼と愛情を感じます。

 

魅力的な物語を紡げるひとはやっぱり魅力的。

コロボックル物語』をはじめとする佐藤さとるの本がもっともっと好きになりまし

た。

 

『妖精図鑑』~86パーセントの「見えない」存在

金木犀の香りがあちこちから漂ってくるようになりました。

朝晩も過ごしやすくなってきたし、もう秋ですね。

 

8月は暑さにやられ、他にもいろいろありましてちょっと疲れてしまって、

「充電期間」と称して読書三昧、Amazonプライム三昧の日々。

(「いつも充電ばかりしてない?」という家族からの突っ込みはスルーで)。

かなりチャージできたので、また少しづつブログに書いていきたいなと思います。

 

今回は、この本。

 

タイトルからして、世界各地の妖精の伝承を集めた本なのかと思ったのですが、

ちょっと違っていました。

可愛らしい見た目とは裏腹に、後味はほろ苦い。

いたずら好きの妖精が書いたのかもしれない、と思うような本でした。

 

ウィキペディアによれば、妖精とは

「神話や伝説に登場する超自然的な存在。人間と神の中間的な存在の総称」で、

大きさ、姿かたち、性質など、さまざまな伝承があるのですが、

「妖精」「フェアリー」といってまず思い浮かべるのは、背中に蝶のような羽をはやし

た愛らしい小人の姿ではないでしょうか。

 

シシリー・メアリー・バーカーの「フラワーフェアリーズ」が有名ですね。

 

 

わたしが子供のころ、森永ハイクラウンのおまけにフラワーフェアリーズのカードが

ついていたんですよ! 沢山集めていたのに一枚も残っていないのが残念です。

 

 

 

永田萌さんの描く妖精たちも大好き。

 

 

 さて、『妖精図鑑』に話を戻すと。

「この本は、エルシー・アーバーという植物博士が1925年に孫?のアナベル

預けた研究資料である」というところから話が始まります。

研究対象は、博士が世界中を旅して見つけた、羽の生えた小さな妖精たちです。

「妖精は本当にいる、よく探せば世界中のあちこちにいる」

「妖精には羽が生えていて、卵を産むけど哺乳類に分類できる」

・・・などなど大真面目に語る博士。

 

「科学者が小さな羽を持つ妖精の不思議な世界をまだ見つけていないからといって、

妖精がいないわけではないのですよ」

と言い切ります。

こういう考え苦手な人もいるでしょうけど、わたしは大好き。

 

妖精はかくれんぼの名人で、木々の葉や花びらを身にまとってカモフラージュし、

小鳥や小動物と共存しながらひっそりと暮らしているとのこと。

こんなところにこんな妖精が!と驚くほど、沢山の妖精が紹介されます。

花びらのドレスをまとって花の中で眠るヒナゲシの妖精はまさに親指姫!

 

最初に予想していた「図鑑」とは違ったけど、これはこれで面白い。

「妖精が見えるのは、そこにいると信じたときだけ」

なんていう文章に「そうそう!」と共感しつつ、大好きな世界を堪能していました。

 

ところが、最後のページの、アナベルへのもう一通の手紙で雰囲気が一変します。

ファンタジーだと思っていたのに現実に引き戻されるというか。

冒頭で博士が言っていた

「科学者が小さな羽を持つ妖精の不思議な世界をまだ見つけていないからといって、

妖精がいないわけではないのですよ」

という言葉には深い意味があったのです。

 

少々古い記事ですが、『ナショナルジオグラフィック』によれば

数世紀にわたる懸命な努力にも関わらず、地球上の生物種のおよそ86%は

いまだに発見されていないか名前が無いらしい。最新の推計によると、

地球には総計870万種の生物が生息しているという。 

つまり、分類済みの種は15%に届かず、現在の絶滅速度からすれば

多くが記録されずに姿を消してしまうだろう。

ナショナルジオグラフィック日本版サイト 2011年8月25日)

だそうです。

 

「妖精」とは、本書で語られてきた「翼の生えた小さな生物」だけでなく、

「いまだに発見されていないか名前のない86%の生物種」のことでもあって。

「妖精」に代表される未知の生物が本当にいるのか?

いるとしたら何に分類される?名前は?生態は?何か人間の役にたつ?

そんなことは本当はどうでもいいんです。

名前がなくても正体がわからなくても、人の目で見ることができなくても、

どこかに「妖精」がいると信じ、「妖精」の住める環境を守る。それが結果的に

わたしたち人間や他の生物全体を守ることにもなる。

この本は、それを易しく伝えようとしているのではないでしょうか。

 

考えてみれば、古くから伝わる伝承の中には現代に通じる真理や知恵が隠されているこ

とが多いです(だからこそ長く伝わってきたとも言えますが)。

妖精の伝承もその一つなのでしょうね。

環境保全を意識して生活するのはもちろんですが、それと同時に、

妖精(のような目に見えない存在)がいると信じそれを守ろうとする心、

古くからの伝承を大切に語り継ぐ心を大事にしていきたいと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一年たちました

ブログを始めて一年たちました(開設したのはもう少し前なのですが、

初記事を書いたのが昨年の9月でした)ので、振り返りと反省をしたいと思います。

 

そもそもブログを始めようと思ったのは、

家に本が増えすぎてスペースを圧迫しているので、

感想を記録しておけば本そのものは処分できて、家の中がすっきりするかもしれない、

と思ってのことでした。

自分で書いているだけだと絶対途中で飽きてやめたくなってしまうから、

公開ブログにしてモチベーションをあげよう、という思惑もありました。

 

ところが。

・手始めに好きな本から取り掛かったら、記事を書いたらますます愛着がわいてしまい

「永久保存版」になってしまう。

・記事を書く前にもう一度読み直すのはもちろん、関連する本や映像作品まで見てしま

い、時間がなくなる。

・作者繋がりやテーマ繋がりで他の本も読みたくなり、さすがに買うのは気が引けるの

で図書館に通いだし、既に手放した懐かしの本を発見してガッツリ借りてしまう。

時にはどうしてもまた手元に置きたくなって買ってしまう。

そして記事を書いたら・・・という無限ループにはまってしまいました。

結果、本の数は減るどころかますます増え、インプットする時間ばかりが増え、

一年間で記事としてアウトプットできたのはわずか23でした。はぁ。

 

でもね、いいんです。

やっぱり自分は本が大好きなんだということがよくわかりましたし、

本が手放せないなら、代わりに服とか雑貨とか食器とか、自分が手放しやすいものを

処分してスペースを作ればいいじゃない、という結論に至りました。

 

また、「ブログに書こう」と思うことで、じっくり考えながら読んだり、

関連することを調べるなど、本の読み方も変わってきたように思います。

つたない文章でも記事にすることで、初めて読んだ時の感動がよみがえったり、

久しぶりに再読したことで別の気づきを得ることもできました。

 

そして、こんなへっぽこなブログでも読んでくださる方がいらっしゃるというのは

本当に本当に励みになりました!ありがとうございます。

 

これからもボチボチ(できればもうすこし頻繁に)好きな本の話をしていきたいです。

本棚に本があふれたままで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『タイムライン』

 先日の記事に関連して、

 

zoee.hatenablog.com

 

ちょっと思い出して観返し(読み返し)た映画と本について。

これもタイムトラベル物です。どんだけ好きなんだかという感じですが。

 

タイムライン (字幕版)

タイムライン (字幕版)

  • 発売日: 2013/05/15
  • メディア: Prime Video
 

 

こちらは現代から14世紀のヨーロッパに時空を移動してしまうお話です。

 

 

 

好きな本は映像化してもらいたい半面、いざ映像化されると

「このシーンは原作と違う、このキャストはイメージに合わない」などいろいろ難癖を

つけてしまう面倒くさい私。

でもこれは、映画を先に見たこともあってか、両方の良いところを楽しめました。

 

 原作は、『ジュラシック・パーク』のマイケルクライトン

最先端の技術を駆使して不可能と思われていた時空移動を成し遂げた実業家がいて、

時期尚早では?という周りの懸念を押し切ってビジネスにしようとするのだけれども、

計画段階では完璧と思われていたプランに次々と想定外のアクシデントが起きて対応

しきれず、どんどんほころびが大きくなってついにはカタストロフィーに…。

「なんだか『ジュラシック・パーク』と似てるかも」という印象です。

 

時空移動の秘密は「量子テクノロジー」という技術で、特に原作ではかなり長くページ

数を割いて説明しています(理数系ダメダメの私にはよく理解できませんでしたが)。

また中世の描写も、言葉、風習、衣服、食べ物など多岐にわたって細かく表現されてい

ます。個人的にこのあたりの年代が好きなので、とても興味深く読みました。

 荒唐無稽なお話ではありますが、こういう細部の描写がきちんとしているので、ぐいぐ

い話に引き込まれてしまうのは、さすがマイケルクライトンだなぁと思います。

 

悪徳実業家に半分騙されるような形でタイムトラベルに送り出される登場人物たちに、

次々と襲い掛かる想定外の危機。

でもメインキャラは、「え、ここで一貫の終わり?」と思いきや、

自分の専門知識や運動能力を駆使して(あるいは持ち前の強運で?)次の章でピンチを

脱出…というパターンが何度か続き、それも『ジュラシック・パーク』と似ています。

原作だとこれでもかとピンチがつづくので、さすがに最後の方は

「主人公は死なず、のパターンね」と思わなくもないですが、スリルは満点です。

 

 

 一方、映画は上映時間の関係上か、もう少しテンポよく進みます。

登場人物を減らしたり、設定や人間関係を変えている箇所がありますが、

逆に頭に入りやすく違和感を感じませんでした。

終盤、戦闘が始まり、タイムリミットが刻々と迫ってくるのにまだメンバーがそろわな

い、このままでは帰れない…というところの緊迫感は映像ならではの迫力があります。

 

映画も原作もいちおうハッピーエンドで、悪役はきちんと報いを受けますが、

原作のほうがジワジワくる怖さがあります。

自分だったら、こんなところに取り残さずに一思いにとどめを刺してくれ!

と言いたくなる終わり方でした。

 

そして、最後に主人公の一人が下す判断。とても重い判断です。

映画の方がラブラブ感があって共感しやすく、冒頭の伏線回収にもなっていて

「おお!そういうことか!」と思えるので満足度は高いかも。

原作では、後に別の登場人物がその判断について、いくら自分で選んだことだとしても

苦労の連続だったのではないか、本当に幸せな人生を過ごせたのだろうか、と思いをは

せる描写があります。

この辺が『夏への扉』に出てきた、「もう一人いたかもしれないタイムトラベラー」と

重なるなあ…と思ったのでした。

 

もう一つ連想したのが中世つながりの『ガウェイン卿と緑の騎士』。

ほんのワンシーンですが、どの場面だったか気になる方がもしいたら、ぜひ原作を読ん

でみてくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おもしろうてやがて悲しき~『夏目友人帳』

今週のお題、「一気読みした漫画」といえばこれ。

 

 

存在を知ったのは数年前にアニメの再放送を見てからです。

まず子供が夢中になり「これお母さん絶対好きなやつだから!はまるから!」と

言われて見てみたら。おぬし、母の趣味をよくわかっておるな…。

その時点で20巻くらいまで出ていたので即大人買い、即一気読み。

今にして思えば、存在を知ったのが遅かったゆえに、

一気読みの醍醐味を味わえたとも言えますね。

 

小さい頃から時々変なものを見た。

他の人には見えないらしいそれらはおそらく

妖怪と呼ばれるものの類。 

(『夏目友人帳』 緑川ゆき 花とゆめCOMICS より)

 

妖が見えてしまう力を持った天涯孤独の少年夏目が、

祖母レイコの唯一の遺品である「友人帳」をめぐって

不思議な出来事の数々に巻き込まれ、その中で成長していく物語。

 

特殊な力を周囲に理解してもらえず、辛く淋しい思いをしてきた夏目ですが、

でもだからこそ弱いものには人一倍優しくてつい手を差し伸べてしまう。

とても繊細でまっすぐで、しかもイケメンで、ちょっとツンデレ

好きにならずにはいられない、少女まんが王道の「王子キャラ」ですよ!!

 

 妖怪というと恐ろしいもの、気味の悪いもの、と思ってしまいがち。

もちろん人を食う悪鬼のような妖や、

何かの形ですらない、雲のような霧のような悪意に満ちた妖も出てきますが

小鳥やウサギやねずみのような小動物系、

モフモフだったりお目目ぱっちりだったりのゆるキャラ系、

人の形をとっているもの、近寄りがたく気高く美しい神のような存在…

いたずらだったりお茶目だったり臆病だったり、

何か大事な任務を帯びていたり、大事なものを守り続けていたり、

業にしばられて、誰かに操られて、苦しんでいたり。

人間の善悪という分類には収まりきらない、様々な妖たちが登場します。

作者の想像力とそれを表現する画力もとても魅力的。

 

お互いに住む世界が違い、生きる時間も理も違い、

本来なら決して交わることのない妖と人。

それでも何かのきっかけで交わってしまったとき、

そこに生まれるのは憎悪?憐み?友情?愛情?

 

いろいろな妖と夏目(と夏目の周りの人たち)との関わり合いが、

時には恐ろしく、時にはコミカルに描かれて、

毎回ハラハラドキドキしたりクスッとさせられたり、

それでも最後はなぜか涙があふれて止まらなくなって、

でもその後で心が浄化されたようにポッと温かくなる気がするのです。

 

夏目はなぜ妖が見えるのか?

夏目の祖母レイコの過去とは?

夏目とニャンコ先生、名取、的場との関係は?など、

いくつもの謎が新たな謎を呼んでいきます。

全ての謎を明らかにしてほしいような、でもそうするとお話が終わってしまうから

いつまでも夏目と妖たちの世界を語り続けてほしいような、

ああ、でも人には「いつまでも」ってないんだよな…。

面白いけど、ちょっと切ない。そんなお話です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あかるい未来はきっとある~『夏への扉』

先日テレビをみていたら、

6月25日公開の『夏への扉ーキミのいる未来へー』の予告編が流れてきました。

原作はSF界の巨匠、ロバート・A・ハインラインの名作『夏への扉』。

SFにはまっていた中学時代に何度も読んだ、大好きな本です。

映画は舞台を日本に移し、時代設定もずらしているとのことで、

原作ファンとしては観たいような観たくないような。

いつものことですが、自分の(勝手な)イメージと違っていたらどうしよう、

と思っていたのですけど、あら、これはこれで面白いかも。

山崎賢人、清原果耶、藤木直人(まさかのロボット役!気になります…)など、

好きな俳優さんも沢山出てますし、観に行ってみようかしら、と思っています。

 

 

 

 

 でもまずは原作について。

 数あるハインラインの著作の中でも、特に日本で大人気の作品なのだそうです。

  

 

 

 

 

 

ぼくの飼い猫のピートは、冬になるときまって「夏への扉」を探しはじめる。

家にあるドアのどれかひとつが、夏に通じていると固く信じているのだ。

そして1970年12月、ぼくもまた「夏への扉」を探していた。

親友と愛人に裏切られ、技術者の命である発明までだましとられてしまったからだ。

さらに、冷凍睡眠で30年後の2000年へと送りこまれたぼくは、

失ったものを取り戻すことができるのか…

(『夏への扉』〔新版〕 ロバート・A・ハインライン 福島正実訳 より)

 

表紙からもわかるとおり、猫のピートがメインキャストの一人(匹)です。

犬派のわたしも、ダニーとピートのやりとりには萌えました。

猫好きな方にはたまらないことでしょう。

 

わたしはこの福島正実訳で読んだので個人的にはなじみがあり、

「文化女中器(ハイヤード・ガール)」なんて表記も懐かしいです。

 

 

小尾芙佐による新訳も出ているので読んでみました。

技術的な用語の訳がこなれていてわかりやすく、「猫語」もいいです。

 

 

 

でも、あくまで個人的な好みですが、

11章終わり近くのリッキィの「もしそうしたら…あたしを…」の問いと

それに対するダニーの答え、

それと最終章の結びの一文はやっぱり福島正実の訳が好き。

何度読んでもグッときます。

 

 

さて、30年後(西暦2000年)に目覚めたダニーが未来の社会

(わたしたちにとっては既に過去ですが)にとまどう描写。

数年ぶりに読み直してみると、改めてハインラインの未来予想の正確さに驚きます。

出版当時の1956年は言うまでもなく、

わたしが初めて読んだ1980年代初頭でも、

まだ空想上の夢物語だったと思われる発明の数々が

(実際には研究開発していたり実現していたものもあったのかもしれませんが、

当時のわたしの生活には全く縁がなく、想像もつかないものだったという意味です)

いつの間にか現実となり、当たり前に使ったりもしているではありませんか!

40年前に読んでいた時は、ハイヤード・ガールが掃除機というには優秀すぎて

「こんな夢みたいな機械、できるのかなあ」と思っていたものです。なにしろ

掃除機といえば重たいキャニスター型で、紙パック式ですらなかった時代のこと。

でも、今読むと、ハイヤード・ガールってルンバですよね!

 他にも、あ、これはタッチパネル/電子辞書/PC/CAD/大豆ミート?/アレクサ!

と思いながら読める楽しさは、時代が追い付いた今だからこそのものでした。

これで風邪さえ撲滅されていればね…。

 

 

 

21世紀での生活にも慣れてきたある日、ダニーは

「自分が発明したことになっているのに発明した記憶がない」設計図を見つけます。

なぜ?

ここからタイムトラベルの話が展開していきます。

 きっとここら辺がSF的には一番の見せ場というか山場なのだとは思うのですが、

残念ながら理数系の苦手なわたしにはちょっと理解しきれない部分もちらほらと。

それでも、科学オンチの人が読んでもちゃんと面白いのがまた凄いところ。

特に、タイムトラベルと「ある歴史上の超有名人」が絡んでくる面白さといったら!

その人物の一生が謎めいていることも相まって、なんだかとても説得力があり、

「いや、ありえるよね?ほんとにそうだったりして!?」

とドキドキしてしまうこと間違いないです。

 

なんとか1970年に戻ったダニーは、未来で得た知識を利用して、

今度こそうまく「2度目の」2000年を迎えようといろいろ画策します。

今までの出来事は全てこのためにあったのか、

この会話にはこういう意味があったのか、

と、ハインラインが張り巡らした伏線の巧みさにまたまた驚かされます。

そして再び冷凍睡眠で21世紀に「帰った」ダニーを待っていたのは…?

 

SFの巨匠ハインラインは、ストーリーテラーの巨匠でもあると実感できます。

明るい未来を予想させる爽やかな終わり方、最初にも述べた結びの一文は感動的です。

 

 

 

ただ、

昔読んだ時は、素直に明るい未来に夢を抱けていたのですが(若かったしね)

実際に21世紀を生きている人間としてこの本を読むとやや複雑な心境にも

なりました。

現在わたしたちは、ハインラインが描いたような科学技術の発展した社会、

便利で清潔で快適な社会に暮らしてはいますが、

未来は、いずれにしろ過去にまさる。誰がなんといおうと、

世界は日に日に良くなりつつあるのだ。

と心から実感できているだろうか…むしろ先行き不透明な不安を感じていたり

しないだろうか…と。

 

それでも、未来をどのようなものにするかはわたしたち次第なわけで、

夏への扉はきっとある、と信じることがまず大切なのでしょうね。

 

  

 

ちなみに、小説のイメージを曲にした

吉田美奈子作詞、山下達郎作曲・編曲の『夏への扉(THE DOOR INTO SUMMER)』

RIDE ON TIMEに収録されています)も是非聴いていただきたいです。

聴きながら読んで、小説の世界に浸っていたものでした…。

 

ライド・オン・タイム

ライド・オン・タイム

Amazon

 

 

 

 

 

大人になって忘れるもの、忘れないもの~『とぶ船』

わたしの大好きなタイムファンタジーをもう一つ。

 

『とぶ船』

ヒルダ・ルイス作 石井桃子訳 岩波書店

 

とぶ船〈上〉 (岩波少年文庫)

とぶ船〈上〉 (岩波少年文庫)

 

 

 

とぶ船〈下〉 (岩波少年文庫)

とぶ船〈下〉 (岩波少年文庫)

 

 

1939年(日本語初訳は1953年)の出版ですが古さを感じない名作だと思います。

4人きょうだいの不思議な冒険の旅、というと『ナルニア国物語』が有名ですが、

こちらも本当に面白く、『ナルニア』に負けないくらい大好きなお話です。

 

 4人きょうだいの長男ピーターは、ある日初めて一人で歯医者に行き、

その帰り道に寄ったふしぎなお店で

金のイノシシの飾りのついた小さな船を見つけます。

ひとめぼれしてしまったピーターは、店主に言われるままに

「今持っているお金ぜんぶと、それからもうすこし」を払って

船を手に入れましたが、実はこの船には秘密があって…。

 

 

この4人のきょうだいがとてもいい子たちなんです。

リーダーとしてきょうだいをまとめるしっかり者のピーター、

知的で冷静なシーラ、

歴史や地理に詳しいハンフリー、

食いしん坊で人懐っこいサンディー。個性もそれぞれ生き生きと描かれます。

 

自分が手にいれた船がただのおもちゃではなくて魔法の船だと気づいたピーターは、

持ち主に返さなくてはならないと思ってきょうだいと一緒に店を探しに戻ります。

店が見つからなくて一瞬嬉しくなってしまった自分を恥じ、

「見つけたくないと思ってるから、見つからないんだ。

一生けんめい、やらないからなんだ」というピーター。

そしてその気持ちを汲んで、暗くなるまで一緒に探すきょうだいたち、

そして最後に「あなたはその船をもってていいんだと思うわ」というシーラ。

なんて正直で、仲が良くて、優しくて、賢いんでしょう!

 

 

さて、船を持っていていいということになって、まずどこに行くのかというと

「入院しているお母さんのところ」。

子どもたちは船に乗って、夜中にこっそり病院を訪ねます。

となりのトトロ』の終盤、サツキとメイがネコバスに乗って病院を訪ねるシーンは

この場面のオマージュかもしれませんね。

子ども達の訪問を証明するものとして、トウモロコシバラの花が残されるあたりも

そっくりです。

 

夕ご飯の時間、いつもならにっこり笑って「何を食べたい?」と聞いてくれるお母さん

がいない…。

お母さんに会いたい。会って元気にしてるよ、大丈夫だよ、と伝えたい、

という子どもたちのさみしさと母を思う優しさが胸にしみます。

また、子どもを置いて急に入院しなくてはならないお母さんの辛さとか、

子ども相手にどこまで病状を説明したらよいのやらと悩むお父さんの気持ちとか、

同じく小さな子を置いて入院した経験のある者には今読むと色々身につまされます。

 

夕ご飯がね、また素敵なんですよ。こんなごはん(日本の感覚から言うととても

おやつっぽいのですが)食べたいなぁとすごく憧れました。

 

 

 

 

子どもたちはこの後、船の秘密を知ることになります。

普段はポケットサイズで気軽に持ち運べ、

いざとなればほんの少しの隙間もくぐり抜けられるくらいに小さくなるかと思えば、

一人のりサイズから大軍隊を丸ごと載せられるくらいにまで大きさは自由自在。

持ち主の要望に応えて現在と過去のあらゆる場所にピンポイントで移動

(しかも自動操縦)、

イノシシの頭をなでればその時代と場所に合わせて服装が変わり、言葉も通じる、

ドラえもんひみつ道具も真っ青な優れもの。

こんなすごい船、いったいどこの船だと思いますか…? ぜひ読んで確かめて下さい。

 そして、ピーターがいまの正当な持ち主であることも示されます。

「この子が自分からそれを手放す日がくるまで、この船はこの子のものだ」

「おまえが、この船を正当な持ち主にかえすとき、

おまえの心からの望みをかなえてやろう」

帰り際に告げられる、この言葉があとあと意味を持ってきます。

 

 

子どもたちは色々な場所を訪れますが、どのエピソードも

歴史上の事実とフィクションがが巧みに織り交ぜられて、

どんどん読み進めたくなる面白さです。

  

エジプトにピラミッドを見に行った時に出会う二コールズ博士は、

ツタンカーメンの呪い」で有名な考古学者のハワード・カーターを連想させます。

さらにはそこで「石棺に刻まれた謎の船」の話を聞いて今度は古代のエジプトに行き、

王国の危機を救う、というまさかのSF的な展開に…。

 

 11世紀のイギリスではマチルダというお姫様に出会います。

危ういところを脱した子どもたちは後日マチルダを自分たちの世界に招待します。

そのマチルダが手掛ける刺繍は、ノルマン朝を開いたウィリアム1世の妃マチルダ女王

の「バイユーのタペストリー」を連想させて…。

 

もう一度イギリスに行った時はなんとロビンフッドと一緒に大活躍!

ここでの冒険は本当にハラハラドキドキします。自分の過ちを命がけで償おうとする

ハンフリーがとても男らしいし、後日談もほのぼのとした余韻があります。

 

 手に汗にぎる冒険の数々ですが、

子どもたち自身には魔法の力などはなく、ピンチの時も

基本的にきょうだい4人で知恵を絞って危機を切り抜けたり、

彼ら自身の性格の良さだとか勇気によって協力者を得るところが

とてもリアルで親近感を持ちます。

 

個人的にはマチルダ姫のエピソードが大好きです。

昔読んだときには、特に最初の出会いの場面はツンツンしてお高くとまった子だなぁと

良い印象を持たなかったのですが、改めて読むと印象が変わりました。

勇敢で正義感にあふれ、自分のできることを精一杯頑張る凛々しいお姫様です。

チルダは、子どもたちの生きる世界は素晴らしいと認めつつも、

「わたしは、わたしの時代の中で、わたしらしく生きていかなければなりません」と、

毅然として自分の世界に戻っていきます。ハンフリーが惹かれるのもわかります…。

二人の別れのシーンはキュンキュンしますよ。

 

作者は、時代や立場の違いを超えた出会いを経験する子どもたちの姿を通して、

人に必要なものはいつの時代もそんなには変わらない、

大切なのは自分を信じて困難に立ち向かう勇気だったり、困った人に手を差し伸べる

優しさだったり、互いを思いやり理解しようとする気持ちなのだということを伝えよう

としたのではないかと思います。

 

 

これらのエピソード以外にも、古今東西いろいろな場所に行ったことになっていますが

残念ながらすべての詳細は語られません。

もともとは作者が息子さんに話して聞かせた物語を本にしたということなので、

歴史や地理の勉強の意味合いもあったのでしょうか。

読者としてはすべてのエピソードを知りたいところなのですが、

もしかしたら本にならなかっただけで、息子さんにはもっともっとピーターたちの

冒険を語っていたのかもしれませんね。

 

 

子どもたちの冒険は5年間続き…

ピーター以外の子どもたちは、魔法を信じなくなってしまいます。

お話の上手なピーターが、まるで本当の事のように聞かせてくれた物語だと思ってしま

うのです。

(ここも『ナルニア国物語』と一緒ですね。大人になったスーザンは、ナルニアの存在

を信じなくなってしまいました。)

 

  

魔法は、信じなければ、きえてしまうのです。

 

ピーターだけは魔法を信じていたのですが、いつかは自分も信じられなくなるかも

しれない、その前に約束を守って船を返さなければならないと決心します。

自分はいつまでも信じていられる、と思わないところがすでに大人な発想で、

これが成長するということなのか…と本当に切ないです。

 

 

再び出会った老人の正体は!?

始めて読んだ時に「えー!!」とびっくりしたのですが、

読むたびに新たな感動を覚えます。

 

そして、 船を返したピーターが暗い海にお金を投げるシーン。

少年時代との決別を描いた場面としてとても印象に残っています。

 

物語の終わり方が、船での冒険が後の子どもたちの生き方に影響していると思わせて

とてもあたたかく大好きです。

魔法は忘れて船を手放してしまったけれど、自分が好きなこと、大切に思うことは

手放さずに生きてきた結果、それぞれ満ち足りた生活を送っている。

約束通り、心からの望みはかなえられたといえるのではないでしょうか。

だから、やはり、魔法は、たしかにあったのでしょうね。